2010/12/30

大駱駝艦を見てきました。(長文)



女装の私が、吉祥寺で大駱駝艦を見てきました。当日は昼間の仕事の残りをした後という事もあり男装でした。





吉祥寺の駅に降りたのは久しぶりです。そこで降りる人を見ていると、山の手線の内側を凝縮したかのような、ミニマム東京の印象を受けました。人が山のように折り重なって歩いている商店街を避けて、北へ北へ。商店もまばらになった所の、とあるマンションの地下に壺中天がありました。白塗りで着物を着た男性が立っています。これは間違いない。間違いようがない。





世田谷パブリックシアターや、大阪フェスティバルゲートにある舞台では見たことがあったのですが、壺中天は初めて。客席の狭さに驚きました。そしてアナウンス(肉声)。「大変混み合いますのでお荷物をおあずけください。お客様はなるべくコンパクトにお座りください。」なるほど。





事前に脅されていたので満員になってもさほど窮屈さは感じませんでした。舞台には白塗り着物の演者が二人。トイレに行こうとしているお客様に舞台を歩く事を薦めてらっしゃいます。客は自由に舞台に上がり、右奥にあるトイレへ向かう。これから始まる舞台の緊張感を全く感じさせない懐の深さ、自然な空気を私はとても心地良く感じていました。








照明が落とされ舞台が始まりました。言語化できるもの、言語化できないもの、全てが渾然一体となって展開していたので、すいません、伝えきれません。なんとか目に見えた範囲で頑張って書くとですね、まず舞台の真ん中には壁がありました。壁の真ん中には穴がありました。「壺ひっくり返っちゃった大作戦」という題目です。おそらくあの穴は「壺の口」なんでしょう。その壁のこちら側(観客側)とあちら側(舞台側)で演者が動きます。





いくつかの小題目を立て続けに演じ、それらが紙芝居の様に一つの題目を構成します。穴の向こうと穴のこちら側にコミュニケーションは存在します。演者が穴から這いでてきます。演者が穴に帰ります。穴の向こうから覗き込む存在がいます。穴の向こうで小学生の扮装をした髭面の白塗りの演者が全く違う時間の流れの中でゆっっっくりと歩いています。穴から物が飛びててきます。穴へ物が投げ込まれます。





壁はただ佇むだけではありません。前へ後ろへ動きます。倒れます。倒れるので穴から人が這い出る様子はよくわかります。斜めになった壁は人が昇る事を許します。上から人が落ちてくることもあります。穴を人がまたぎます。人がまたいだ穴へ手を突っ込んで何かを取り出す人もいます。何かが出てくる時、またいでいる人はまるで妊婦の様に苦しみます。産みの苦しみです。またいでいる人は男性です。





壁の前に食卓が用意される事もありました。最後の晩餐です。天井から丸い金の輪っかがつるされる事もありました。そこに天女がいます。天女は金の輪っかの中で踊ります。踊りと言っていいのでしょうか、私にはわかりません。あまりにもゆるりとした時間の中で、空気をあやつるかのように動くその様子は、踊っているとしか言いようがないのですが、私には儀式に見えました。





一つ一つの展開は10~20分程しかありません。そこには時間以上の内容が在りました。時間という概念が全く意識されない。中身、内容の濃さが意識される不思議な空間でした。周りの人は滑稽さを見つけては笑います。私は笑う事ができない場面では笑いませんでした。周りがいくら笑っていても私は笑いませんでした。泣きました。理由はわからないのですが、なぜか涙がでてきました。





白く塗られた人は肉体しかありません。余計な言語はありません。私たちはそれを見るとき言語を用いて理解する作業を経ず受け取ります。肌から皮膚から筋肉から骨から内蔵から脳から神経から伝わってくる信号を、そのまま受け取る事ができます。そして後になって、今、私がしているようになんとか言語化するのです。私が受け取った感覚は「記憶、衝動、欲望、ナンセンス、ナンセンスからの美、ナンセンスだから感じる恐怖、誕生、崇拝のメカニズム」。そしてそれらの「発現」でした。





穴の向こう側は壺の内側だったのでしょうか。穴のこちら側が壺の内側だったのでしょうか。説明はありません。私たちが解釈するしかありません。私にとってそれは「クラインの壺」でした。内側は外側であり外側は内側でもありました。内側、外側の概念はありませんでした。在るのは境目としての「壺の口」だけ。比較対象は「壺の口」しかありません。その向こう側に見えるものは、比較対象ではないのです。それぞれは無関係です。もしかすると関係があるかもしれませんが、関係があると思った人にとってのみ関係があるのです。





混沌としてしか表現できない「それ」に、「壺の口」が「発現」のきっかけを与えます。そうして最後には宗教画に似た構図と佇まいと存在感を持った「絵」に落ち着きます。終着点はそこしかないのでしょうか。おそらくそこしかないのでしょう。私たちは、終着点を見つける事で持っている混沌をなんとか整理し、いわゆる正気を保っています。無秩序な混沌には、滑稽としか言いようがない可能性と広がりと深みがあるのだと、感じる事ができる舞台でした。








見る人によって感じ方の違う舞台でした。だからこそ、今年の締めくくりに選びました。今年の私を再確認することができました。本当にありがとうございます。





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2010/12/22

【告知】 偽ダダ漏れサンタになります。



女装の私が、クリスマスイブに偽ダダ漏れサンタ(偽)ガールとして渋谷の街に出没します。





偽サンタガール&偽ガール、とまあ2重で「偽」者が渋谷に出没します。楽しそうな企画です。詳細はこちらから。





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オトナコドモラボ×ケツダンポトフ 共同企画


「ダダ漏れサンタを探せ!」


渋谷の街中でサンタクロースを見つけるかくれんぼ大会!


クリスマスイヴの夜、そらの&Coba-Uが、サンタクロースの姿で渋谷街中を逃げ回ります。


2人を見つけることが出来た人には、うれしいクリスマスプレゼントが!?


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今日こそは彼女とチョメチョメ、だけど見え見えの欲望はかっこよく無いから、なにか普段できない企画に参加して彼女と二人で笑いながらお酒を飲んでその勢いで、なんて素敵な事を考えている、そこのあなた!





クリスマスに恋人と家ですごしているけれどもテレビが面白くなくてなんとなく二人の間に微妙な空気か流れるかもしれないと不安になっている、そこのあなた!





クリスマスなんて「性なる夜」で本来の意味から大きくかけはなれてしまっているのが許せないから一人で家でお味噌汁をすすりながらテレビでも見てやる、なんて思いながらも少しはクリスマス気分を味わいたい、それもちょっとクスっとするような企画を楽しみたいと思っている、そこのあなた!





カップルを冷やかしてやろうとクリスマスの渋谷にくりだしてみたものの、想像以上にカップルが幸せそうで不憫な想いをしてしまって落ち込んでしまう、そこのあなた!





豪華プレゼントが当たるかも!?ぜひ参加してくださいな★








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2010/12/21

カオスラウンジに行ってきました。



女装の私が、「【新しい】カオス*ラウンジ【自然】in 高橋コレクション日比谷」に行ってきました。長文です。





最終日のカオスラウンジはカオスでした。高橋コレクション日比谷という、宝塚劇場の隣で開催されているっていう位置関係もカオス。入場料が300円というのもカオス。





お金を払って中に入ろうとすると、白い布のような膜が丸く張られている。脆弱なのに拒むエネルギーは身体的・精神的に計り知れないという、処女の胎内外の境目を感じた。そりゃ、あれだけのカオスを秘めてるんだから拒みもするよね。





膜をくぐるとコラージュが壁一面にあって、左を向くとノイズはなはだしい絵。左の奥はヨドバシカメラやドンキホーテの(ような)垂れ幕が敷き詰められたカオスゾーン。後で向かう。右側の壁にはカオスラウンジに参加している作家の絵や絵じゃないものや絵になろうとあがいているものや、つまり作家そのもの。空白を怯える子供を思い出してしまう。そういえば少年(女)時代、私も空白の全くない色ベタの絵を描いていた。色鉛筆やクレヨンや絵の具の無い画用紙が怖かったのを覚えてる。





右に進むとコタツ。床に絵。人が寝ている。iPadで遊んでいる。遊んでいるのかただ生きているのかわからない。カオスだからって理由で許されていいのかよ。思っても仕方がないから、絵を見るんですが、見れば見るほど怖くなるというか。





覚えているものだけを羅列。





梅ラボさんのコラージュは3次元と2次元の間とその向こうにある異次元と、そのまた先の次元を見ている人(入ってすぐのおっきな作品)がいたのが、ショック過ぎた。人は進化してるんだね。人間が違う、視覚が違う。世代の違い(といっていいのかわからないけれど)が、こうも恐怖を与えるのかと思ってしまう。見ていて疲れる。





nyarさんの細かい線と枠の中にある色と、それらが細胞のように生きている形を作っている絵(といっていいのかもはやわからない)は、神様の戯れを感じた。nyarさんが神がかっているとか、そういう事を言いたいんじゃない。だれもが神みたいにはなれるんだってこと。(か?ほんとに・・)





はまぐちさくらこさんの絵は、たぶん何度か見ているからだと思うけど、安心感があった。でも、この安心感に甘えちゃいけない。ずっと見ているとその狂った可愛さに引き込まれてしまうから。細い線からはみ出た色の力を感じたとたんに、怖くなる。





その他ちくわエミルさん、ARiKEMさん、神谷アルテさんなどなど、どこかで名前は聞いていたけど、という人の作品を見れた。アニメ画だ、目が大きい、構図が奇妙、サブカルだアングラだ、色々言う人もいるでしょうが、作ろうとする人の、愛に似た純粋なエネルギーは伝わる。





まとめ。カオスラウンジはカオスそのもので、肉体派の私にとって精神の進化が、新しい道具を得た精神の激しい進化にショックを受けた。愛が人類の経験した事の無いレベルへ純粋化していっている。周りから見ると退化に見えるかもしれない。それしか無い、それしか無いというシャープなベクトルが作る世界は狂気。





女装がどうとか言っている私にとってショックな展示でしたが同時に光明でした。当たり前の事だけれども、変化は許される。


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2010/12/20

サラヴァでピッサユーの復活を見てきました。



女装の私が(男装で)、サラヴァでピッサユーの復活を見てきました。





渋谷BUNKAMURAのすぐそばに新しくできたSARAVAHのオープニングイベントで、真珠子さん櫻田宗久さんあや野ちゃんのユニット、ピッサユーが復活するということで見てきました。いつもは女装なのですが、当日は木曜日平日なので仕事帰り(!)、男装で向かいました。新しい空間は、それだけでワクワクする。これからどんな経験を刻んでいくんだろう、この白い壁は。カウンターは男と女の駆け引き仕事の駆け引き笑い声泣き声怒声を酒と共にしみこませるんだろう。ピカピカのドアノブは人を引き入れ人を送り出す。そして、あの日は、狂った女子の極みを刻んだのでした。





演者は、てんぬい(真珠子さん・あや野ちゃん)、ぴっさゆー(真珠子さん・櫻田宗久さん・あや野ちゃん)、花どすえ(ソワレさん・櫻田宗久さん)、宍戸留美さん(とギターの人・)、てんぬいガールズ(光ファイバーちゃんこと都和子ちゃん・ヴィンセントちゃん・杉本ちゃん)。全て狂可愛い。





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ノイズ・ピアノ・ドラム・リコーダー・子供の泣き声のような歌声。なぜか気になる「ピッサユー」というフレーズ。プロの赤ちゃん真珠子さんのステージは目が離せません。花どすえでは、ソワレさんがしゃべらないキャラ。宍戸留美さんの歌声は体を内側からくすぐるようなずるい優しさ。そしててんぬいでは、今まで人形に着せて見せていた真珠子さんデザインの服がついに生身に纏われダンスショー。フラメンコ、バレー(のようなもの)、創作ダンス。一つ一つがてんぬいの曲とあいまって見たことの無い少女的妖艶さ。





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男装でよかった。パラボリカでの真珠子さんの個展で、私の少女が引きずり回された経験を思い出しました。もちろん、サラヴァでも充分ひっぱり出されて蹂躙されて、帰ってきた時にはピカピカの少女が私の中に入っていきましたが。





まだうまく説明できません。少女というものは何なのか自分でうまく伝えることができないのです。10歳から女装を始めた私は、少女と青年を同時に過ごしています。純粋な少女性の経験が無い。あの時ただ漠然と曇りガラスの向こうで大切にしてきた白い服着た短い髪の毛の赤い口紅をひいた女の子が本当に、私の少女だったのか。しっかと少女を手にとって眺める事ができたなら、その時は、サラヴァでの経験がまた違った色合いで私の目に映るんでしょう。ああ、楽しみで仕方ない。





閑話休題。サラヴァはほんとに魅惑的でした。まず店長が男前。バッジのたくさんついたベストがオシャレ。キリリとした色の濃いちょうど良い太さの眉毛。帰り際の握手が忘れらんない。そして、宍戸留美さんとユニットを組んでいたギタリストの方がもう、はんぱなく男前。手足が長いのと顔が小さいのと色気があるのと乱暴なのと。ほんとに癒されました。





これで記事をしめたら、本題は男前を見に行ったことなのか、って思われそうですが。まあ、そんな感じです。少女回帰し、自分の欲望に正直に物事を見ることができた。キャッキャウフフできた。そんなスイッチなかなか無いじゃないですか。人それぞれ欲望スイッチあると思いますが、より純粋な形で、多くの人のスイッチを「カチリ」と入れることができるイベントでした。





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2010/12/17

『鳴り物入りを呑気に楽しむ夕べ』 at 高円寺のら犬カフェ に行ってきました。



女装の私が、高円寺のら犬カフェで開催された『鳴り物入りを呑気に楽しむ夕べ』に行ってきました。





高円寺南口ロータリーをくだってすぐのマンション(?)の2階にあるカフェには、テラスがあって、そこにコタツを用意したりゆるい空間の中ライブ開始。





フラとギターの弾き語りユニット「虹色のフラリ」は、この1年ずっと追いかけてる素敵なバンド。(とはいっても行けてないライブもあるけど。。)歌声もメロディも歌詞も、歌詞を踊りで表現するフラも、優しいのです。相手を選ばない。もしかしたら世界で一番多くの人に聞かれる(感じられる)ユニットになるんじゃないかとさえ思う。この日はバンド形式。ベース(木蓮って韓国太鼓のバンドから)とマンドリン(ドン珍否島Trippersから)が助っ人として加わって、いつもとは違う楽しい雰囲気。観客から「まるまる~」ってコーラスが起こるくらい楽しげなライブとなりました。





高円寺の魅力をそのまま体現したかのようなライブ。色々気になることはあるけれど、そんなことより楽しもうよ、でその場の空気を包み込む。酒盛り、音楽、笑い、制度なんて○○○だぜ、空気は何にも負けないぜ、ガハハ。ポリスメンが何度かやって来ましたが(防音ではなく、青空ライブ形式なので)、まあ、ゆるい裸の空気は壊れることはありませんでした。私も女装をしてることを忘れるくらい。








何でも受け入れる空気はとても優しくて、居心地がいい。涙が思わず流れるくらいに優しい。だからこそ、そこに腰を下ろす事はない。受け入れられることが当たり前になるのは、今日は心地良いが明日はどうだ。来年はどうだ。私が死んだ後はどうだ。





先を見据えすぎるのはいかがなものか。と、言われるけれども私は私の人生を過ごしながら大きな流れを生きている。行動は歴史の、それこそ毛穴の黒ずみ程度かもしれないが、一部分になる。大きな流れを小石程度が変えられるとは思わないけれども、渦の一つくらいは作れる。その渦が大きなうねりとなって、大きな石を引き止める。石が砂が集まって中洲になる。そして島となり大陸となる。





妄想の灯台はとてつもなく遠くを照らしているからこそ、足元を固めたい。と、強く思った高円寺の夜でした。





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2010/12/15

「おむつてんてん/ペイ*デ*フェイベント」に行きました。



女装の私が、中野ブロードウェー4階にある乙女の為のお洋服屋さん、ペイ*デ*フェで12/11に開催された「おむつてんてん」に行きました。





紙オムツを履いた乙女二人(後で2人加わりました)が繰り広げるノイズライブ。オムツ着用は義務。首が回るノイズ子ちゃん、頭に突起のたくさんついた赤ちゃん人形風、透明な蛙の人形風といったノイズオシレーターをかき鳴らし、リコーダーやアコーディオンをかき鳴らし、卑猥な言葉を人形を介して叫びまくり、男の乳首を触り、離乳食を求める。カオス以外の言葉を当てはめる事が難しい。





私も紙おむつを履きたかった。くだらない枠をぐちゃぐちゃに踏み荒らして、誰からも許されるカオスを体の芯から放出できるあの空間は、とても魅力的でした。女装だとか男だとか女だとかマイノリティマジョリティ関係ない、性別も人種も階級も何もない、原点赤ちゃんに今ある器のままで回帰できるデトックス。踏み出すのに相当な筋力は必要だけれども、その筋力は誰もが持っている。重苦しい甲冑を誰もが着ている。脱ぎさえすれば鍛えられた筋肉でカオスの世界へ飛び込むことができる。はずさっ。





見終えた私は、メイク直しもせずにブロードウェイを後にしました。周りから見れば、それはもう、レイプされた後に見えるくらい、疲れ果てていました。カオスとろくでもなさと、それでも可愛いノイズライブ。「おむつてんてん」は来年も開催予定なので、興味のある方はぜひ。








>>>動画はこちら<<<


閲覧注意。想像を超えた内容です。





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2010/12/10

『ワンナイトスナック森馨+林アサコ』でキュン死しました。



女装の私が、『ワンナイトスナック森馨+林アサコ』でキュン死しました。





渋谷109を超え、BUNKAMURAに向う途中の小道を「コ」の字に曲がった先に、ポスターハリスギャラリーがありました。ボーカルの林アサコちゃんが女給になるというので『ワンナイトスナック森馨+林アサコ』に向ったのです。林アサコちゃんはtwitterでフォローをしていたのですが、その絵の男前加減が私にはかなりツボ。最近、あや野ちゃんのお誘いで「顔面コンプレックス」というスカムバンドを結成したのですが、そのドラムとボーカルという出会いでした。縁ですね。





ワンナイトスナックは大盛況で、アトリエサード/トーキングヘッズの鈴木さんがいらしたり、ソワレで一度お会いしたハヤシさんや、その他アーティストの方(すいません、お名前を知らない無学で・・)などなど。「スナック」の良い雰囲気が充満していました。私は男装だったもので控えめにいたのですが、「星子」というスパイシーな梅酒(これがまたうまい!!)に連れられて談笑の輪に入ることができました、後半だけ。








22時ごろ、イベントがはじまりました。アサコちゃんが、ただでさえ色気ある衣装だったのに、その背中をはだけさせ、下着もない肌色の艶やかなキャンパスを見せてくれたのです。森さんが、その妖艶な佇まいをさらに怪しくして、筆をとり、アサコちゃんの背中に絵を刻みだす。本人は違うと言っていましたが、身体に筆が入るたびに、絵の中に入り込んでいく。





SMに似た性的イメージや危うさや魅力を持っているそのショーは、スナック特有の湿度を冷ややかな、心を捉える海の湿度に変えてしまいました。息を飲む、完成された絵。アーティストが、自身からにじみ出た絵画に覆われる。捉われる。海流のうねり、大渦の静かな力強さを、蛸と少女の絵に感じています。二人のアーティスト、この日のために描かれた絵、対比、抗えない力の流れ。





想像もしていなかった出来事に、美味しいお酒を飲むことができました。ありがとう、アサコちゃん。…あ、キュン死についてですが、2度ほどキュン死しました。アサコちゃんのお人形のような佇まいに1キュン死。森馨さんの妖艶な佇まいに2キュン。抗えない力を感じる人に、私はキュン死するらしい。





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2010/12/07

(後編)角田修一さんの個展『THE Parodist』展へ行きました。



女装の私が、角田修一さんの個展『THE Parodist』展へ行きました。最後です。








トークショー後にご本人に挨拶をし、私は退出いたしました。まだ私には角田さんとお話ができるほどの背景が無い、足りない。でも、お会いできて本当によかった。お話が聞けて本当によかった。足りないこと、やらないといけないこと、「これでいいんだ」って発見ができた。





ファッションフォトが好きで(とはいっても雰囲気が好きなだけでたぶんミーハー精神かもしれないけど)、「あんなオシャレな写真の中に入りたい。作品の一部として人を魅了する存在になりたい。男の体が女として。」と思っている私。白状します。角田さんの作品を単に「女装写真の上位概念」だと、心のどこかで考えていました。でもそうではなかった。そこには、人間のとてつもなく力強い衝動がありました。だから人を惹きつける。





私がなぜ、女装スタジオの写真で満足しないのか、その理由がわかりました。とたんに自撮り写真に満足できなくなってきた。こりゃまずい。これからまた忙しくなるなあ。。。








※長文お読みいただきありがとうございます。文章の構成上、また携帯端末で読まれる方向けに、前編中編後編とわけて公開しております。「一気に読みたいよ」って方がもしいらっしゃいましたら、コメント残していただけますでしょうか。別ブログor専用のタグを用意して別途再まとめ投稿をいたします。





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(中編)角田修一さんの個展『THE Parodist』展へ行きました。



女装の私が、角田修一さんの個展『THE Parodist』展へ行きました。中編です。





作品と、その撮影風景を紹介するスライドムービーからトークショーは始まりました。おっと、その前に、角田さんご自身が男前だってのを紹介しないとね。モデルだったこともあるそうで、作品の素晴らしさには撮られる側としての経験が反映されています。(どのブログで見たのか忘れたけど)昔はキムタクと表紙を競っていたとかいないとか。それが嘘じゃないと確信できるくらい素敵な方で、不覚にも心臓がきゅっとなってしまいました。どうして私は妻子持ちに心が惹かれるのか。





閑話休題。私が聞きたかったことは、トークショー開始10分で聞くことができました。「なぜこの作品なのか」。それは高校時代から魅了され続けてきた海外のファッションフォト、その作家に自分が撮影されたらどんな風になるのかを再現したかった。強烈な「好き」は尊敬となり、忠実に再現する為の技術や癖をとことん理解して進める衝動となる。中途半端は許せない。レタッチの技術だけでは足らない。モデルとなる自分自身の肌質・体系・心情・纏うオーラ(つまり経験値)にまで意識を集中させる。そうして作られた作品だからこそ、いわゆるパロディや真似とは言わせない佇まい(気迫や完成度、美しさ)を持っている。角田さんのあの爽やかな笑顔にこめられた本気に、私はうちのめされました。やられた~(恋愛的な意味ではなく、人間的な意味で)。





オマージュで培われた(であろう)再現の手法が、角田さん個人のものとして独立した作品が、Micheal JacksonやBeyonce、Madonna、Lady GAGAなどのスターシリーズです。私、作品としてはこのシリーズが好きです。色々なスターを、ご自身の解釈でもって再現する。このシリーズの作品集が出たら、買います。角田さん。





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(前編)角田修一さんの個展『THE Parodist』展へ行きました。



女装の私が、角田修一さんの個展『THE Parodist』展へ行きました。








週末角田修一さんの個展『THE Parodist』展へ行きました。自らを実験台に、著名なファッションフォトグラファーの作品を再現している写真。それらには女性モデルに扮した作品が多く、女装ライターとして行かないわけにはいきません。





開催されているギャラリースピークフォーは代官山にありました。つまりオサレスポット。白い壁、大きな窓を持つ建物のB1Fにあります。中目黒から代官山へ散歩するときに必ず前を通っていたのですが、入ったのは初めて。すこし緊張をしながら階段を下りました。こんな気分は久しぶり。どうしてオシャレスポットって人を緊張させるのでしょうね。





菅付雅信(編集者)さんのツイートでこの展示を知った私。それまでは角田修一さんご自身を、大変失礼なことなんですが、知りませんでした。展示の前にサイトを見させていただくと、見たことのある写真が多く、いや、それよりも、あまりの気迫にマウスを触る手が止まる。トークショーでのご本人の言葉からわかった事なのですが、「好きである」ことの力は何にも代えられない。撮る技術については不勉強ですから詳しくは触れませんが、それが無ければ完成しない作品である事は、私でもわかります。





トークショーが始まる30分前に到着。作品を見てからお話を聞きたかった。3コンセプト、20~30点近く作品が展示されていました。お目当てはやっぱり、雑誌「フォトグラフィカ」での連載「変身ポートレイト」。オマージュされた作家の事を知らずに見たのが悔やまれます。各作家の作品を知った状態ならば、もっと何か感じることができたろうにと後悔しております。MARIO TESTINOしか知らなかったorz。





とはいえ、知っていても知らなくても、つまりこちらの状況なんて関係ないと言わんばかりに、各作品それぞれがパワフル。30分フルに使って観て、やっとトークショーに臨む準備ができました。ちょっと疲れた。特に「Ellen von Unwerth」のオマージュが素敵で、写真の前から動けなくなるくらい。その他にも、「Steven Klein」「helmut newton」「Inez van Lamsweerde」など、(私はその日まで知らなかったのですが)大御所へのオマージュ。展示としてかなり充実した内容です。来てよかった。





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2010/12/02

海月姫を見ました。



女装の私が、女装の男子が登場する海月姫を見ました。





絵柄とか、オタクな女の子とか、そういうキャラクターや設定がまず、すごい可愛いと思いました。チャットモンチーの歌も。何かを本気で愛でている人は、私は男女関わらず好きなんだと確認。ひとまず。団塊ジュニア、就職氷河期を生きた世代であること、ニート、葛藤、愛すべき登場人物すべてが他人とは思えません。設定に引き込まれます。





私は蔵之介ほど女装とわりきっておらず、つまり「ノーマルだよ」って事はないのですが。素敵な服を着たり、クローゼットがキラキラしている事に目を光らせる気持ちが痛い程わかります。それって、少女的だってことですよね?違いますか?





まだまだストーリーは続きます。蔵之介の家庭や女装や月海ちゃんとお兄様の恋や運転手・花森さんとのBL(たぶん)など。見所満載のこのアニメから目が話せません。





しかし不思議です。ガンダムOOのロックオン・ストラトス(第2期、ニール・ディランディ)は女の人と恋をしたってだけで興味の範疇から外れてしまったというのに。つまり普通のヘテロ恋愛物語(inアニメ)に興味が全く無いはずなのに。月海とお兄様、蔵之介の関係はかなり萌える。





BLでは無いのに。なぜだろう。





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2010/12/01

(後編)しりあがり寿さんのワークショップに行ってきました。



女装の私が、しりあがり寿さんのワークショップに行ってきました。最後です。





「目に見えないもの、そこにはないものを、真面目に、しっかり、克明に、正確にとことん描いてみる、そんなデッサン教室があってもいいんじゃねぇかなー?」(しりあがり寿)





2時間が経ちました。自分のデッサンを椅子の上に置き、全員のデッサンを見まわる時間がありました。みなさんの絵を見て、私は興奮しどおしでした。だって、お金をだしてもいいくらい、とても面白いというか、おどろおどろしいというか、混沌とした世界が20枚近くそこにあるのですから。聞けばプロの絵描きさんやイラストレーターさんもいらっしゃったようで。一瞬自分の絵が恥ずかしくなりかけましたが、まあ、ワークショップに臨む精神をしっかり設定していたので不本意な落胆からは逃れる事ができました。「しりあがり寿さんにあいたーーーーい」ってだけではなく、ちゃんと妄想デッサンを体験する事が今回の目的でしたから。





言い訳はさておき、こうまでして、女装であることから距離を置いて体験できるとは思いませんでした。周りの方も、女装がいる事なんて全く関係なくデッサンに集中されていました。たぶん。女装なんてただのインターフェースであり、その先の内面を意識して育てる事が大切になってくる。実感しました。今回、知識として「デッサンとはなにか」を得る事ができましたし。とことん妄想する事をクセづける事で、普段の想像力に幅と深みを持たせる事ができそうです。しりあがり寿さん、ありがとうございます。出席者の皆様、本当に素敵な時間をありがとうございました。





※京都に行った事をしりあがり寿さんが覚えてくださっていたのが、小躍りする位に嬉しかった。ディクショナリー倶楽部のアートピクニックプレパーティーで桑原茂一さんに出会えた(お話はできなかった・・)のが嬉しかった。なにより、コーヒーを淹れてくれた男性がかっこ良くてドキドキしたw





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(中編)しりあがり寿さんのワークショップに行ってきました。



女装の私が、しりあがり寿さんのワークショップに行ってきました。中編です。





「目に見えないもの、そこにはないものを、真面目に、しっかり、克明に、正確にとことん描いてみる、そんなデッサン教室があってもいいんじゃねぇかなー?」(しりあがり寿)





「テーブルの上に旅の途中の小人がいる。恐ろしいモンスターが小人を襲っている」を妄想しデッサンする、というお題でした。妄想した小人やモンスターはとことん正確に描きます。もちろん、テーブルや部屋の様子や、可能であれば絵を描いている参加者までも描き入れる。あくまで「デッサン」のワークショップなのです。絵の勉強をしたこと無い私は、なりふり構わず筆を走らせました。結果こうなりました。





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私の座った席から見た風景です。テーブルの向こうに窓があり、そこから照明が顔を覗かせていましたが、光が灯されるまでは丸い塊でした。私にはそれがモンスターに見えたのです。その丸いモノは目なのか口なのか。焦点が定まらないままにモンスターの質感や種族や小人を襲う理由がどんどんと見えてきたのです。これは描かないといけない。筆をとにかく走らせた結果です。





描けば描くほど焦点が定まってきます。丸いものは目や口という概念では説明のつかない、味覚と聴覚と視覚を司る器官で、栄養はそこから摂取する、であるとか。天井に生息していて、自重で床に届きそうになるモンスターは、床にとどくと生命を絶ってしまう。目とも口ともわからない器官は床に届くと種に似た機能を持った物体になる。芽が出て上に伸びる。天井にある母体と融合し、母体の体積を際限なく増やしていく。そうして部屋を満たすと、新たな部屋を目がけて移動をする。そんなモンスターを妄想していました。





重力に反発した形状の個体を持ちつつも、繁殖機能は重力に寄らねばならず、また天井が無ければ生息することができない。異形と矛盾を抱えつつも、一見すると滑稽なモンスター。はは。女装に近くないかい。男という個体に反発した見た目を持ちつつも、その存在は男という起点に寄らねばならず、性差を否定しそれを超えようとしながらもその性差が無ければ女装という存在がぼやけてしまう。異形と矛盾を抱えつつ、メディアや一般的な視点からは滑稽や悲劇がある。はは。





(後編に続きます。)





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(前編)しりあがり寿さんのワークショップに行ってきました。



女装の私が、しりあがり寿さんのワークショップに行ってきました。





「目に見えないもの、そこにはないものを、真面目に、しっかり、克明に、正確にとことん描いてみる、そんなデッサン教室があってもいいんじゃねぇかなー?」(しりあがり寿)





原宿駅を降りて代々木体育館方面へ。桑沢デザイン研究所の近くにディクショナリー倶楽部という都会の隠れ家がありました。桑原茂一さんが代表をつとめるプロデュースカンパニー「クラブキング」が運営しているこの施設では、聞こえてくる音といえば、鳥の鳴き声、木々の葉のこすれる音、フリスビーがコンクリートにぶつかる音、わかいおじちゃんの叫び声、静かで、山手線の電車の音がかすかに聞こえる程。ピクニックに来たかのような錯覚を覚える場所で、ワークショップは開催されました。





ワークショップは淡々とした講義10分と、その後のデッサンワーク約2時間で構成されていました。漫画における絵柄が、小説における文字に限りなく近くなってきている事、つまり記号化。「だから漫画を描きたくなくなっちゃって」くる気持ちも、なんとなくですがわかります。記号の枠を取り払いそこに無いものをとことん妄想してとことん正確に描いてみる。そして、自分の持っている記号の序列をシャッフルしてカクテルして搾り出して、新しい「おっ、こんなのもあったんじゃん」を感じるワークショップ。(と、私は受け取りましたが、いかがでしょうかしりあがり寿さん)





当日、私は空気を読んで、真っ黒いフェティッシュな格好ではなく、everlasting sproutのニットワンピースを着て出席。ピクニックってんで、森ガールっぽいというかね。周りにいる人は、見た感じ絵を描いてそうな人や、おしゃれガールや、不思議ガールや、芸術家風の男性や、様々な人種が一同に介した印象です。周りを気にしていたのは私くらいでしょうか。絵を描く段階では、全員がテーブルに集中し、妄想をたくましく働かせます。私も、せっかくワークショップに来ているのですから、その場にいる自分に意識を置かず、妄想と絵に集中しました。





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2010/11/30

HASEさんという絵描きさんについて書きました。



女装の私がHASEさんという絵描きさんについて書きました。





色々なタイミングでHASEさんの絵を見て、立ち戻ったり気づかされたり癒されたり、つまり私は強い影響を受けています。何もないミニマルなキャンパスに線が生き物のように引かれ、カタチになり。そのカタチは人の姿をする。いわゆる完成された写実的な絵ではなく、おそらく人の服を剥いで皮膚を取り除き肉を捨て去り骨を抜き血を流し内臓を丁寧にしまいこんでしまったその向こうにある「人」を描いているんじゃなかろうか。「見る」ではなく「見せつけられている」という表現がしっくりくる。





こう書けばとても攻撃的な絵なのじゃないか、と思われるかもしれないが、実はそんな事はありません。ミニマルな「人」の像は「人」からにじみ出る「感情」や「行動」を際立たせています。HASEさんの作品には「感情」や「行動」がとてつもなく美しい色とカタチで表現されています。表現されているというか、そこにあります。その色や形を見た瞬間に、自分がどうしようもなく守ろうとしている「人」といおう固体のくだらなさと、それでもそこから「しか」発信されない「感情」や「行動」の素晴らしさに立ち返ることができる。つまり私は強い影響を受けているのです。





日本に帰ってこられた時には、かならず個展を見させていただきたいですし、ロンドンに行く機会があればぜひ作品を見に行きたい。ご本人はイギリスにいらっしゃるので、作品を見る機会が減りましたが、何作品もWebで見させていただいている中で、私なりに感じた事です。





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2010/03/10

バッドルーテナント



「Fitzcarrald」の衝撃が忘れられず、ヴェルナー・ヘルツォークの映画だという情報だけで観に行ったわけですが。まあ、最初から最後まで苦笑いが私の顔から消えることがなかった。薬漬けの不条理な世界ですから、魂がブレイクダンスしますわ、イグアナがテーブルの上を歩きますわ、なんでもあり。しかし、刑事テレンスは、最初から最後まで「刑事」だった。そういう映画。





ハリケーンカトリーナが街を破壊しつくしたニューオリンズ。逃げ遅れた囚人を助けた刑事テレンスは表彰されるが、その時に負った腰の怪我がもとで、薬漬けに。ギャンブルに溺れ、薬を求めて暗躍する。不法移民の一家が惨殺される事件の捜査を続けていたが、愛人の高級娼婦のフランキーが招いたトラブルから事態は思わぬ方向へ。





暴力の限りを尽くし、コカインとヘロインを吸い続け、ギャンブルに溺れ金に溺れ、ギャングに情報を売る。悪役としか思えない、悪すぎる素行ばかりが目立つが、どっこい、刑事テレンスは刑事なのだ。私はそう思った。麻薬常習者にありがち(らしい)の、不可思議な行動を取っていても、つまり愛人と捜査の証人となる少年を同じように扱うなんて事をしていても、最終的には刑事なのだ。老婆の鼻のチューブをひっこぬいて脅迫まがいの事をしながらも、それでも、根底は(たぶん)刑事なのだ。





人は弱いから、間違うことはあるよ。麻薬やギャンブルや酒や暴力を肯定するわけじゃないけど、どうしようもない存在が人間なんだもの。ヴェルナー監督もそれをわかって、不条理をわかって、この映画を撮ったんだろう。わかりやすい善意は、本物じゃない。薄っぺらいメッキが剥がれたその先には、ありえない弱さが待っている。その弱さを受け入れて、悪行を在るものとして認識して見据えて、その先に本物がある。人間らしい善意がある。善意と言うと陳腐だなあ。なんて言えばいいんだろうか。邪悪なものに打ち勝った、人間の強さ、かな。





極めて楽観的な感想だが、同じ人間という種族である以上、アメリカ人だろうが旧西ドイツ人だろうが日本人だろうがなんだろうが、最後の最後に残った「らしさ」は共通であってほしい。それが何かの救いであってほしい。そんなパンドラの匣の希望に似た監督の強い想いが感じられたのだが、考えすぎだね、これは。笑いたければ笑えばいいさ。笑ってすませる映画だから。それでいいなら、それでいい。私は、この映画を観て、胸が痛くなるほど泣いたさ。





Dr.パルナサスの鏡



ヒース・レジャーの急逝により完成が危ぶまれたこの映画。映像が素晴らしい。最初から最後まで、パルナサス博士の頭の中の世界にうっとりしてしまう。





舞台はロンドン。悪魔との契約で不死を手に入れたパルナサス博士。彼の移動式劇場が街をゆく。鏡の中に入った観客は別世界を楽しむ。それは自らの願望が具現化された別世界。しかし、古びた劇場に振り向く人は一握り。貧しいながらも、自由気ままに街をゆく一行。だが、パルナサス博士だけは何かに怯えている。そんな時、トニーという怪しい男が仲間に加わるが・・・





鏡の中「イマジナリウム」は想像の世界。そこでは欲望のままに、人は過ごすことができる。欲しい物が手に入り、自らが望む姿に変わることもできる。トニーは観客と共に何度か鏡の中に入るが、顔が毎回変わってしまう。それは、観客の欲望がそうさせたのか、自らの欲望がそうさせたのか。とにかく、「イマジナリウム」だからなんでもありなんだわ。





ヒース・レジャーが生きていた間に、鏡の外の撮影は済んでいたらしい。「イマジナリウム」の撮影だけ、ジョニー・デップたちが代わっている。最初から想定されていた訳ではないんだろうね。しかし彼の死があったからこそ、鏡の中の「想像的な世界」がより「リアル(?)」に描かれている。この映画は、監督の技術や想いや強運、ヒース・レジャーの演技や想い、共演者の演技や想い、どれか一つが欠けていたら完成しなかった。そう考えると、運命的な映画なんだと、私は思う。





「イマジナリウム」に迷い込んだ人は選択を迫られる。それが良識ある選択ならば博士の勝ちとなり、堕落を選べば悪魔の勝ちとなる。テリー・ギリアムが、この作品を完成させる「選択」をしたために、人類の歴史に(おおげさかな)、このような運命的な作品が刻まれた。





それでも、悪魔はどこかでパイプをくゆらせて、また誰かに選択を迫るんだろうなあ。





2010/02/13

知的な痴的な教養講座/開高健




知的な痴的な教養講座 (集英社文庫)

知的な痴的な教養講座 (集英社文庫)










読了。50編のエッセイがつらつらと書かれているので、読みやすい。内容は、まあ、都度「ぎょっ」としてしまう内容なので、スラスラと読めるわけでもない。エロイ内容をくそまじめに書くことができる人は、ほんとうの変態なんだと思う。私が縄だとか●●●だとか***がいいとか@@@の++に△△△を**したいとか書くと、ほんとにただの犯罪だものな。





しかしこの人は頭がいいし、知識欲はハンパないし、行動力もある人だからベトナム戦争へ取材に行ったり。特に、この人の戦争描写がリアルすぎて大好き。現実を見てきた人の書く現実はそれ以上に生々しいので、体験するには刺激が強すぎるけれども、それはやっておくべき体験なんだと、私は強く思う。戦争を知らない子どもたちに残さないといけない文学、間違いない。





さて、次は何を読もう。作中でべた褒めされていた司馬遷『史記』が読みたい。





2010/02/11

なんでもポン太




なんでもポン太 (QJクンズー漫画 (02))

なんでもポン太 (QJクンズー漫画 (02))










好きな作家の本は、とにかくひいき目に読んでしまう。この本を買った数年前は、そう思っていた。だって、この本はとにかくデタラメでめちゃくちゃ。クイックジャパンの編集長が「何でもやっていいですよ」なんて言ったもんだから、しりあがり寿がお花畑で真っ裸であれこれやるような、そんな破天荒な漫画なんです。





ほんとむちゃくちゃで、ストーリーなんてものは皆無。原稿用紙にそのまま描いているのもあれば、ボールペンか何かでぐちゃぐちゃにしている吹雪だけの漫画とか。共通しているのは、流しの男が飲み屋の店主に「デタラメ言ってんじゃねえ!!」と怒鳴られて雨の中放り出される最後のシーンだけ。これで出版できるなんて、すごい世の中だなあ。なんて思っていたのですが。





今読み返すと、面白い。むちゃくちゃがなぜか整理されている気がする。計算されている気がする。もちろん、意図なんて無いんだろうけれども、なぜか面白い。「こりゃまいった」と何度も言い続けてしまう。年月が経っても面白いと思えるんだから、これは本物なんだろう。





不条理が好きなわ・た・し。





2010/02/10

やまだないとのフレンチドレッシング




フレンチドレッシング (アクションコミックス)

フレンチドレッシング (アクションコミックス)










セックスのシーンに、私は勃たない。それを綺麗なものだとも思わない。神聖視もしないし、無駄に肯定もしない。ただ、肉体が絡んでいるだけであって、そこに物語があるだけで、その物語を読んでいるだけで、絵に何も反応をしめさない、私の下半身。ええ、下ネタでごめんなさい。





だって、エロ本なんですもの。気を抜けば。女子高生がおっさんとセックスをする。女子高生が売春をする。親友同士の男の子とセックスをして子供を妊娠する。男同士のカップルの間に入ってセックスをする。女の子同士でセックスをする。近親相姦。強姦。なんでもこい、でも、総じてエロよりも、生身の感情が目立つのです。





女は子宮で考える、と聞いたことがある。この本を読んで、ああそうですか、と納得してしまう。でもその納得は気持のよいものではないけれど。だって私には子宮がないから。子宮があるかもしれない場所には別の内蔵がある。ここで考えてみろというのは、無理がある。膵臓でどうやって考えろってんだ。健康的な恋愛をしろってか。知るかい。





冗談はさておき、綺麗ごとで恋愛だのなんだの、男と女のつながりは説明できないんですよね。私にはよくわからない。どうせ傷つけるなら、はなから恋愛なぞしないほうがいい、なんて腐ってますから。フレンチドレッシングに憧れるとするならば、前戯も何もいらない挿入と射精とでつながる恋愛に。何も求めない。内蔵と内蔵のつながりだけが欲しくなる。そういう本です。





2010/01/19

世界の終わりの魔法使い




世界の終わりの魔法使い (九龍COMICS)

世界の終わりの魔法使い (九龍COMICS)










これは、反抗的な男の子の話です。反抗・対立の対義語は降参・従属。この漫画の世界は「魔法」に打ち勝った「科学」が「魔法」に従属してしまった世界を舞台に描かれます。





(あらすじ)


1000年前の魔法大戦で魔法星団と戦った「発達した科学団」は最新鋭の科学を集結させこれに抗った。魔法星団側の精神的支柱であり、何万人もの人間を殺した魔法使い「魔王」を最新鋭の刑務所に封印。それを見守るかのようにある村は、1000年たった今、魔王の呪いでみな魔法使いになっていた。その中で、たった一人、魔法が使えない少年「ムギ」。魔法なんて大嫌いと科学で空を飛ぼうとするが…





「魔法を敵と戦った人間が 今は魔法をつかってるなんて なしくずしというかなんというか。」という老人の言葉に、誰一人として違和感を感じない村。あまり笑って読めませんね。身の回りで、似たような事が起こっていそうで。世界に見放された世界はだらしない方向に流れていく。同感です。おっきな時代の流れ、歴史には、わたしたちちっぽけな存在は見向きもされない。それに抗うかのように、本が記されている気がする。本を読むことは、流れに降参し従属することに反抗し、そうして、今自分のいる世界を劣化させないように、必死に抵抗することであるような気がします。





ちぃっぽけな少年が、ただ一人、おいてけぼりにされた科学にしがみついている。この姿を「かわいいねえ」で捉えることは、時代に諦めているような気がする。西島大介という作者はPUNKな人で、原稿が紛失してしまったことを出版社に訴えた事で、一時期名前が知られています。河出書房で「アトモスフィア」や「凹村戦争」などパンクな作品を書いている人。こんな作者が「かわいいねえ」で終わる漫画を書くはずが無い。





あとがきで作者は「『どうでもいいさ』という言葉は、すでにできあがった社会に対するある種の反抗の言葉に聞こえます。」と、登場人物である魔王(魔女)の名前について語っています。黄昏を迎え続けている社会に生きている危機感は、いつの時代にもあって、必要不可欠な感覚なんだろう。こんな鋭い感覚の漫画には、西島大介の画風がほんとによく合います。中和してくれる。





2010/01/14

南瓜とマヨネーズ




南瓜とマヨネーズ

南瓜とマヨネーズ







【あらすじ】”ハギオ”が忘れられないまま”せいちゃん”と付き合う私、ツチダ。音楽で成功することを目指している”せいちゃん”のためにバイトで生活費を稼ぐ私。色々あって最近だめな”せいちゃん”と生活をするために、水商売だってかまわない私。ある日”ハギオ”に会った私。あの時の気持ちが沸き上がってきて、やっぱり私は”ハギオ”が好きなんだって思ってしまった私。どうしたらいいかわからない。





今日、何気に手に取った漫画は魚喃キリコの「南瓜とマヨネーズ」。ちょうど事務所で上司から「あんたはほんまに女がわかってない。結婚できへんで。」と言われ、男と女の付き合いに悩んでいたから、強烈なタイミングでした。また漫画に大切な事を教わりました。キレイゴトでは終われない傷をお互いに負ってそれを見せ合って分かり合って、それでも毎日一緒に笑っていられること。男と女が一緒にいるってそういうことなんだと。





”せいちゃん”のためにバイトをして水商売をして売春までしてしまう”ツチダ”は、たぶん誰も責められないし、どうしようもなく誰かを好きになった人ならばそうするんだと思う。そんな”ツチダ”を赦して、一人働かせる訳にはいかないから自分の夢を諦めて仕事を探して一緒にいることを選んだけれども、それでも音楽を忘れられなくて、どうしようもなくなって”ツチダ”に別れを告げた”せいちゃん”を誰も責められない。





一度全く違う道を進むようになった”ツチダ”と”せいちゃん”が自然と出会って、また二人で暮らすようになったのを、冷めた目で眺めるような人間には、なりたくないと思いました。30歳が言う書評ではないかもしれないですが(汗)、それでも、感情の少ない絵と強烈に感情の込められた台詞は、時折読んであの頃の大切な気持ちを取り戻させてくれるのではないでしょうか。





2010/01/13

バンパイヤ








人間はだれでも、あばれたくても、あばれられないときがある。


人をなぐりたくても、なぐれないときがある。


それはみんな、人がきまりや道徳にしばられているからだ。


そういったものにしばられないで、


やりたいとき、すきなことができたら、


どんなにたのしいことだろう。


もしかしたらそれがほうとうの生きがいではないだろうか。


それとも、きまりや道徳をよくまもって


まじめ人間でくらすのがいちばんしあわせなのだろうか?


(手塚治虫 あとがきにかえて より一部抜粋)





個人差はあるものの、何かがきっかけとなって獣化する種族を作中ではバンパイヤと呼んでいます。獣化すると理性が効かなくなり、人を襲ったり畑を荒らしたり、好き勝手やり放題を繰り返す。バンパイヤ一族はそうした自らの欠点(性質?)を熟知しているため、人里離れた山間の村でひっそりとくらしていた。しかし、近代化の波が山に訪れる。土地調査の調査員が村を訪れることが判明し、種の秘密が危機にさらされることに…。バンパイヤ達は村を捨て、人間の社会に溶けこむことを決心する。多少の事件は起こすもののひっそりと暮らすバンパイヤ一族。しかし、悪魔のように知的で冷酷な少年ロック(間久部緑郎)は、世界を支配しようという野望のためにバンパイヤを利用しようとする。





少しあらすじが長くなってしまいました。すいません。書きながら思ったのですが、バンパイヤって普通の人間と変わらないんじゃないかと思うんですよね。ぼくらは獣化できないから、好き勝手できないだけで、衝動を抑えて生きているのはバンパイヤと変わらない。好き勝手悪行を繰り返す間久部緑郎の方がかえって人間離れして見える。不思議な感覚です。





漫画はエンターテインメント性を帯びてストーリーを進めますが、あとがきに書かれた手塚治虫の問題提起は解決されません。読者に委ねられています。特に第2部に至っては掲載誌の休刊により未完に終わっています…。せっかく人間に生まれたのだから、動物となって好き勝手いきるのは嫌だなあと思いつつ。注意して生きないと、人間は、間久部緑郎のようになってしまう危険性があることを自覚しておきたいと思いました。小心者のぼくは、悪行すらできないと思いますが…





strawberry shortcakes




Strawberry shortcakes (フィールコミックスGOLD)

Strawberry shortcakes (フィールコミックスGOLD)







最初に申し上げますが、私は男です。家庭を持ち、養うだけの収入を社会で稼ぎ、年寄りになり、人生を終える道が目の前に伸びていく。そういう男という性として生を授かりましたが、私は女性性を持っているので、夢は主婦です。誰かに所有され、その中で自分の守れるだけのものをしっかりと守る。それ以上の戦いは望みません。だから、ライターとして密やかに社会貢献をし、その対価としての報酬でひっそりと家庭を守る。そんな私を所有してくれるような方と、家庭を持ちたいと考えています。なんだこりゃ。





「strawberry shortcakes」を読んで、誰に共感するでもなく、ただそこに流れる空気に共感する人は多いのではないでしょうか。イラストレーターや上京してきたOLや娼婦などなど、4人の登場人物はそれぞれが、一定の意味で普通ではない。「普通ってなんだ?」という疑問が頭をもたげるけれども、まあ、なんとなく、そんな一般的ではない人たちが集まって、東京という街の住人を形成しているのだと思います。(そういう意味で「恋したいおさげの女の子」が普通に一番近いんだろうけど)





それぞれがどうしようもなくワガママで、好き勝手生きている。でも、どこかであきらめがあって、それも青臭いんだけれど。ただ「幸せになりたい」という希望だけが共通していて、その「求め方」や「あきらめ方」に共感する。それは女性性を持っている人間ならば誰しもが共感しうることなのじゃないでしょうか。だから映画化もされたんではなかろうかと。





神様


ほんとは


あなたなんていない。





あたしはこんなふうに


菊地を手に入れるのだ





真っ黒いページにこの5行の台詞。これがこの4つの短編が織りなす「strawberry shortcakes」をまとめています。私の持っている単行本は祥伝社のもので、装丁がマーブル模様の美しいものでした。それは全く混ざり合うことのないいくつかの色が、不規則に模様を描いていていて、それはそれで美しい。生き方や求め方は色々で、何かに当てはまる必要はなくて、無理はする必要がない。ただ、自分の生き方に責任をもって、それをまっとうすればいいのだろうな。





そう思いながら、部屋でも掃除すっか、なんて思った私でした。書評になってねーな。すんません。。





2010/01/10

丸尾末広はこういう人だったのか。




芋虫 (BEAM COMIX)

芋虫 (BEAM COMIX)







小説を原作とした映画を見て落胆することが多くないですか?「無骨だけれども優しい不器用な男を想像していたのに、なぜあのジャニーズ俳優が起用されるの?」「水のような透明な女性を想像していたのに、なぜあのアイドルが起用されるの?」落胆というよりも憤りが先にたつ作品が多すぎる。原作を愛して作られた映画やドラマは数えるほどしかありません。





さて、この芋虫は、江戸川乱歩の小説が原作になっていて、まあ、この漫画に興味を持たれる方の多くは、江戸川乱歩の原作を多く読んでらっしゃる事でしょう。私もそう。非日常が平然と描かれている世界観…芋虫はその代表格とも言える作品です。戦争で大怪我を負い、芋虫のようになった夫と暮らす妻の狂気を淡々と物語ります。





四肢を無くし、芋虫のように這う男と、五体満足な女のセックスシーンを現実の世界で、私の生活の中で見ることはありません。結局、本を読みながら頭の中で想像するしかない。その想像の世界にはフィルターがかかっていて、それは、あまりにもひどいものは想像したくない、というフィルターで。芋虫とはいえ造形の上で非日常なだけであって、その顔や汗や精液や血や、そういったものは絵画のように繊細な配置をもって描かれているわけです。





しかし、丸尾末広はそうではなく、現実的な芋虫を描きました。戦争をくぐり抜け、何年も生き抜いた人間の顔にヒゲが生えていないワケがない。禿げていないという確証などもてない。腹はでるだろうし、皮膚は年齢を物語るように凹凸を見せるだろう。精液は汚らしく汗と混じり合う。恍惚の表情などは艶やかなわけがない。綺麗事を江戸川乱歩が描いただろうか。まさか、そんなはずはない。汚らしくも生々しい生身の人間の内面からはじけとぶ異常で妖艶な愛が本質にあるはずだ。ということを、再認識させられる一冊です。





ただ





小説でも漫画でも変わらぬ魅力を持ったモノがあります。それは「ユルス」という一言。外界とつながることができる最後の手段であった「視力」を愛する女性に絶たれた芋虫。彼(人間とも呼べない風貌だけれども)が、それを悔いた女性に詠んだ3文字の辞世の句が「ユルス」でした。目も耳も口も効けない芋虫は、目を突いた女の言葉が聞こえない、表情が見えない、何もわからない。頼るのはただ今まで二人で過ごしてきた時間が証明する彼女という存在と、自分と彼女の間にある愛という概念だけ。それがいかに純粋であったかを物語っています。でなければ「ユルス」ことなどできようか。そして自ら命を絶つことなどできるだろうか。





「ユルス」の一言から丸尾末広の漫画版「芋虫」は始まります。私は原作への愛を感じました。





2010/01/07

ゴブリン公爵




ゴブリン公爵(1) (手塚治虫漫画全集 (352))

ゴブリン公爵(1) (手塚治虫漫画全集 (352))







コミックの表紙に使われている鬼のような石像の名前は「燈台鬼」と言います。3000年前、はじめて中国を統一した殷(いん)王朝が守護神として造り、念力で自由に動かせる破壊ロボット。それをめぐって善悪4人の登場人物がぶつかり合う。人を殺す兵器にもなれば人を救う存在にもなるロボットを巡り、善と悪の戦いがはじまる…





悪役が漫画のタイトルを飾るこの作品。手塚作品は主人公と相対する「悪」が際立つものが多いですが、その中でも個性の強い「悪」が登場しているからでしょうか。作者自身も「この作品の最大の収穫は新しいタイプの悪の少年を生み出したことでしょう。」とあとがきで書いています。





手塚作品の悪役スターは「間久部緑郎=ロック」です。作品によって多少違いはありますが、どこか普通の人間と外れた執着(例えばナルシストとか…)を持ち、絶対的な「悪」として活躍します。ところが、ゴブリン公爵の珍鬼は、それとはまた違った悪の人間として登場。冷血な一面を持ちつつも、人間らしい弱さを持った、誰もが陥りうる危うい「悪」の存在です。





ストーリーはたぶん少年向けだと思います。全編、超能力合戦が繰り広げられる、いわゆるエンターテインメントです。それはそれで楽しいのですが、悪役に注目して読んでいただくと、また違った楽しみ方ができる深い(?)作品です。つまり、噛めば噛むほど美味しい、燻製みたいな漫画です。





2010/01/02

手塚治虫『マグマ大使』




マグマ大使(1) (手塚治虫漫画全集 (186))

マグマ大使(1) (手塚治虫漫画全集 (186))







ロケット人のマグマとガム、人間のまもる君が、


地球をゴアの魔の手から守るお話。


醜い姿にコンプレックスを抱くゴアは、


美しいものに目がない。


地球を支配しようと色々な兵器を使うんだけれど、


街並みや森などを壊そうとしない。


綺麗なままで自分のモノにしたいゴア。


はてさて温暖化で砂漠化が進み、


緑の失われている今の地球。


それでも、ゴアは欲しがるのかな。


いつまでも、ゴアが欲しがる地球でいたいなあ。