2010/03/10

バッドルーテナント



「Fitzcarrald」の衝撃が忘れられず、ヴェルナー・ヘルツォークの映画だという情報だけで観に行ったわけですが。まあ、最初から最後まで苦笑いが私の顔から消えることがなかった。薬漬けの不条理な世界ですから、魂がブレイクダンスしますわ、イグアナがテーブルの上を歩きますわ、なんでもあり。しかし、刑事テレンスは、最初から最後まで「刑事」だった。そういう映画。





ハリケーンカトリーナが街を破壊しつくしたニューオリンズ。逃げ遅れた囚人を助けた刑事テレンスは表彰されるが、その時に負った腰の怪我がもとで、薬漬けに。ギャンブルに溺れ、薬を求めて暗躍する。不法移民の一家が惨殺される事件の捜査を続けていたが、愛人の高級娼婦のフランキーが招いたトラブルから事態は思わぬ方向へ。





暴力の限りを尽くし、コカインとヘロインを吸い続け、ギャンブルに溺れ金に溺れ、ギャングに情報を売る。悪役としか思えない、悪すぎる素行ばかりが目立つが、どっこい、刑事テレンスは刑事なのだ。私はそう思った。麻薬常習者にありがち(らしい)の、不可思議な行動を取っていても、つまり愛人と捜査の証人となる少年を同じように扱うなんて事をしていても、最終的には刑事なのだ。老婆の鼻のチューブをひっこぬいて脅迫まがいの事をしながらも、それでも、根底は(たぶん)刑事なのだ。





人は弱いから、間違うことはあるよ。麻薬やギャンブルや酒や暴力を肯定するわけじゃないけど、どうしようもない存在が人間なんだもの。ヴェルナー監督もそれをわかって、不条理をわかって、この映画を撮ったんだろう。わかりやすい善意は、本物じゃない。薄っぺらいメッキが剥がれたその先には、ありえない弱さが待っている。その弱さを受け入れて、悪行を在るものとして認識して見据えて、その先に本物がある。人間らしい善意がある。善意と言うと陳腐だなあ。なんて言えばいいんだろうか。邪悪なものに打ち勝った、人間の強さ、かな。





極めて楽観的な感想だが、同じ人間という種族である以上、アメリカ人だろうが旧西ドイツ人だろうが日本人だろうがなんだろうが、最後の最後に残った「らしさ」は共通であってほしい。それが何かの救いであってほしい。そんなパンドラの匣の希望に似た監督の強い想いが感じられたのだが、考えすぎだね、これは。笑いたければ笑えばいいさ。笑ってすませる映画だから。それでいいなら、それでいい。私は、この映画を観て、胸が痛くなるほど泣いたさ。





Dr.パルナサスの鏡



ヒース・レジャーの急逝により完成が危ぶまれたこの映画。映像が素晴らしい。最初から最後まで、パルナサス博士の頭の中の世界にうっとりしてしまう。





舞台はロンドン。悪魔との契約で不死を手に入れたパルナサス博士。彼の移動式劇場が街をゆく。鏡の中に入った観客は別世界を楽しむ。それは自らの願望が具現化された別世界。しかし、古びた劇場に振り向く人は一握り。貧しいながらも、自由気ままに街をゆく一行。だが、パルナサス博士だけは何かに怯えている。そんな時、トニーという怪しい男が仲間に加わるが・・・





鏡の中「イマジナリウム」は想像の世界。そこでは欲望のままに、人は過ごすことができる。欲しい物が手に入り、自らが望む姿に変わることもできる。トニーは観客と共に何度か鏡の中に入るが、顔が毎回変わってしまう。それは、観客の欲望がそうさせたのか、自らの欲望がそうさせたのか。とにかく、「イマジナリウム」だからなんでもありなんだわ。





ヒース・レジャーが生きていた間に、鏡の外の撮影は済んでいたらしい。「イマジナリウム」の撮影だけ、ジョニー・デップたちが代わっている。最初から想定されていた訳ではないんだろうね。しかし彼の死があったからこそ、鏡の中の「想像的な世界」がより「リアル(?)」に描かれている。この映画は、監督の技術や想いや強運、ヒース・レジャーの演技や想い、共演者の演技や想い、どれか一つが欠けていたら完成しなかった。そう考えると、運命的な映画なんだと、私は思う。





「イマジナリウム」に迷い込んだ人は選択を迫られる。それが良識ある選択ならば博士の勝ちとなり、堕落を選べば悪魔の勝ちとなる。テリー・ギリアムが、この作品を完成させる「選択」をしたために、人類の歴史に(おおげさかな)、このような運命的な作品が刻まれた。





それでも、悪魔はどこかでパイプをくゆらせて、また誰かに選択を迫るんだろうなあ。