2011/06/22

『藤堂良門 展 - 7000 Basalt』を見てきました。



ART FRONT GALLERYで開催されていた『藤堂良門 展 - 7000 Basalt』を見てきました。








藤堂氏は石の彫刻家です。石を削り違った形にする彫刻ではありません。石でガラスを挟みます。1cm弱ほどの薄いガラスを積み重ねた積層ガラスが様々な石に挟み込まれている作品です。積み重ねられたガラスはエメラルドグリーン色をしています。灰色や茶色にゴツゴツした石に挟み込まれたガラスは、とても美しい色を見せます。





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石は藤堂氏が自ら選びます。ドイツ、デュッセルドルフが活動の拠点の藤堂氏はベルリンやノルマンディー海岸を歩き作品に使う石を拾いあげます。集めた石を切り、ガラスを挟み、磨きます。まるで石の一部がそっくりそのまま積層ガラスに変化したかのように見えます。積層ガラスは、物語や歴史が刻まれた本のページにも見えます。








石の経験を読み解かせるかのように、一枚一枚のガラスが私たちに問いかけます。天気の変化、通る人の変化、音や衝撃。石が内在化してきたありとあらゆる事象を、私たちは藤堂氏の作品を通じて想像することができます。作品を紹介するカードには、必ず収集した場所が明記されています。場所に関連した歴史は、石が伝える経験に彩りを与えます。








今回の展示では、石の彫刻の他に、本の間に積層ガラスをはめ込んだ作品も展示されていました。本を媒介として、作家が、文字が伝えようとした歴史や思想は、同様に本を通じて経験を重ねます。藤堂氏が一冊一冊選んだ本が経験してきたあらゆる事象を想像する。作品を手に取るとずっしりと重い。それは、もちろんガラスだからなのですが、歴史の、時間の重さでもあります。





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藤堂氏が石を収集する場所、そして選ぶ本の共通点は「戦争」です。確かに、社会と自然が最も強烈に関係する(物理的に)点は、「戦争」であるかもしれません。展示は終了しましたが、藤堂氏のサイトには美しい作品の写真や製作過程が紹介されております。ぜひ一度見てください。





彫刻家 藤堂良門_TODO RAMON





2011/06/21

青山悟個展「芸術家は人生において6本の薔薇を真剣につくらねばならない」を見てきました。


女装の私が、MIZUMA ART GALLERYで7月9日まで開催されている、青山悟個展「芸術家は人生において6本の薔薇を真剣につくらねばならない」を見てきました。







白い四角の部屋の壁3面にミシン刺繍によって描かれた薔薇が5本。残り1面には白く思い布が垂れて扉になっています。くぐると黒く重い布が続き、その先にある小さな黒い四角の部屋は”ほとんど”光のない世界でした。部屋の天井ほぼ真ん中から左に向けて静かな赤い光。その先に薔薇が1本あります。赤い薔薇でした。しばらくその小さな黒い四角の部屋に立っていると、目がその暗さに慣れ、薔薇が鮮やかに見えてきます。赤い光に照らされた薔薇の鮮やかな花弁は、白い四角い部屋にあった5本の薔薇と同様に、丁寧に描かれています。しばらく花弁を見つめてから茎に目を移動させると、錯覚により茎を描いている糸は緑色に染められます。(在廊されていたご本人から聞きましたが)黒い部屋の薔薇は一色の、白銀色の糸で描かれていました。黒い布を戻り白い布をわけて白い部屋に戻ると、もう一度、5本の薔薇が目に入ります。







この作品を体験するまで気づくことのなかった視点を与える/経験させる作品でした。黒い部屋の薔薇ははたして「赤い薔薇」なのか「白い薔薇」なのか。目に見えるそれは「赤い薔薇」だけれども実は「白い薔薇」なのだ。赤と白を同時に見せる薔薇。相反する(と思しき)2つのイメージを同時に表現する。「そのうちのどちらか」を決定するのは、薔薇を見ている本人である。見ている本人が不在であれば、薔薇は赤でも白でもない。「どちらか一方」の「どちらか」が示す二項対立は、もしかすると、本人が安心するために作り上げた嘘の対立なんじゃないか。赤と白を同時に言う言葉は無い。無い事を説明するのは(相手が自分であれ他人であれ)ストレスで、不安だから。







6本の薔薇は、大量生産の道具である工業用ミシンで制作されました。「大量生産のためのテクノロジーである工業用ミシンを用いて丹念に縫い上げられた刺繍作品を通して、現代人の生活とテクノロジーとの関係性を批評し、またそれにより失われつつある人間の感受性や創造性についての問題を提起する」作家青山悟氏は、展示にあたり「薔薇をつくることを自分の作家活動において二度としない」と宣言しました。その気迫、覚悟が投影されているからでしょうか。何百年も生きた作品かのような存在感。素敵、上手、本物みたい、美しい、可愛い、全てをなぎ払う力強さと繊細さ。赤い薔薇は労働党のシンボルで、政治を意味しています。白い薔薇(赤い照明がなければ白く輝く薔薇となる)は西洋画におけるマリアのシンボルで、美術を意味している。この薔薇は、では、政治なのか美術なのか。見る人の世界に問いが投げかけられます。







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ミシン刺繍によって表現される6本の赤い薔薇。それが表層上、本展の全てです。多くの象徴性を持ち、美しく、同時に陳腐である薔薇のイメージに対し、いま敢えて真っ向から取り組むこと。それが、「労働」という概念や、政治と美術、手工業と機械工業、イマジネーションとアプロプリエーションなどの二項対立等に対する問題意識を反映した作品群、「Glitter Pieces」(2008~)を経たうえで作家が選択した新たな方向性です。青山は自ら「薔薇をつくることを自分の作家活動において二度としない」と宣言することによって、アートが本来持つロマンティックさとその強度を呼び起こさせる一方で、「作品か、作家か」という価値や評価軸に対する疑問を私たちに投げかけます。はたして作家最後の薔薇たちは有効性を持って現代に咲くのでしょうか。

MIZUMA ART GALLERY 展示紹介文から引用)

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赤を女とし白を男とする現代。女装の私は、青山氏の薔薇を自分と重ねました。




2011/06/16

中村うさぎさんの本を読んでいます。(書き途中)



女装の私が中村うさぎさんの本を読んでいます。先ほど「ババア・ウォーズ 新たなる美貌」を読み終わりました。巻末の福岡伸一教授との対談で、自らを「何にもなれなくて、永遠の自分探しを続けている」癌細胞に例えていたうさぎさん。「何にもなれなくて」は私にも当てはまる。誠に勝手ながら、私と妙に近しい存在だなあと思って読んでおりました。





そして見つけました。決定的に違いながら、乗り越えられそうな気のする溝を。「理性とは、感情を抑圧するためのものではない。」理性とは「感情を理解するためのもの」・・・。エリカ31歳、理性の手綱(と思いこんでいたややこしいもの)を振り切って暴走しても、まだ大丈夫な年齢かしら。





2011/06/08

市川孝典「FLOWER」展@NADiff Galleryを見てきました。



女装の私がNADiff Gallery(恵比寿NADiff a/p/a/r/t地下)で開催されていた市川孝典 個展「FLOWERS」に行ってきました。








気の狂った紳士のような風貌の市川氏ご本人から丁寧に、絵についてのお話しを聞くことができました。彼の絵は線香で描かれます。一枚の絵を描くために、60種類以上3000~4000本の線香に火が灯されます。和紙に線香をあてて焦がします。線香によって焦がされた和紙の黒、焼け落ちた穴、線香が触れずに綺麗なまま残っている白。「蝶々」や「花」や「何気ない風景」を描くのは、そうした単純な作業の痕跡です。








市川氏は記憶を「無くす」事に強烈な恐れを感じます。記憶の種類は関係ないといいます。種類に必然性はありません。ただ「無くす」事を恐れて、記憶を、「頭に浮かんだシーン」を残そうとします。私が彼に狂気を感じたのは、記憶を残そうとする際に何一つ補間作業を行わない、という誠実さです。








「頭に思い浮かんだシーン」はいつも抽象的で、脆く拡散していこうとします。市川氏1ヶ月かけてその「シーン」を観察します。彼の創作活動は「シーンの観察」からはじまります。具体化していくのではなく観察して把握する。霧散してしまい、残す事ができなくなる記憶もあると聞きました。「シーン」が把握できると、線香に火が灯されます。下絵は無いそうです。3日間、「シーン」は和紙に焼付けられます。そして作品が完成します。つまり、「頭に浮かんだシーン」が補間されないままの状態で残されます。市川氏の線香画は、彼の記憶そのものです。








下絵が無いということは、明確な輪郭が無いということです。「頭に浮かんだシーン」の花には、花である領域と花で無い領域が明確ではありません。だからこそ観察と把握に努めます。掴み取った手がかりを、一つ一つ線香で焼き付けるのです。市川氏の誠実さは、自身の言動(13歳で家出をして単身NYへ。気の狂った上品な紳士のような風貌。アイライン。などなど…)からは想像がつきません。が、私の心に強烈なイメージで焼き付けられました。








線香の匂いを嗅ぐと、様々な記憶が浮かび上がります。お葬式やお寺、京都や着物女子の部屋や大好きなお香屋さん…。市川氏の個展以来、彼の絵と佇まいがそれに加わりました。





柳本小百合さんのライブを見てきました。



女装の私が、下北沢のモナレコードで行われた柳本小百合さんのライブに行ってきました。








柳本さんとは知人のライブで知り合いました。ライブ前にYoutubeで映像をチェックすると、ピアノ弾き語り。声は高くて柔らかい(矢野顕子さんに似てる?)。「空中ぶらんこ」や「じょうろちゃん」といった題の歌で、歌詞は童謡みたいに可愛らしい。甘いお酒でも飲みながら椅子に座ってゆっくり楽しめるのかなあ、と思っていたら、そうではなかった、というレビューです。








モナレコードのピアノを激しく演奏する柳本さんの声は、Youtubeで聞いた声よりも揺れていました。そして、揺れる私の心の波に奇妙にはまり込む。落ち着いてなんて聞いてられません。聞けば聞くほどそわそわしてくる。そして彼女から目が離せなくなる。顔がほころんでいると気がつく頃には、ライブは終わっています。








柳本さんの「揺れ」た声は、安定している「揺れ」でした。わざと揺れて吸収するビルの免震構造に近い。仕事に疲れて、とか、ルールやモラルに憧れて、押し殺されて爆発寸前の心の揺らぎを免震してくれる声。力強い「揺れ」を持った声でした。体力が必要です。力強さが必要です。マッチョというよりも母性に近い力強さ。華奢な体からは想像できません。東京音大卒業後にPAIパパ・タラフマラ舞台芸術研究所)でコンテンポラリーダンスを学び、そして現在の音楽活動に至った経緯を聞いて納得しました。発声、ピアノを弾く指、客に見せる表情、「にゃー!!」と猫のパフォーマンス、椅子からお尻が浮き上がる程の激しい演奏となぜ音がなるのかわからないほどに静止した状態での演奏。心に残る「舞台」でした。子供向けのイベントや、色々なジャンルのアーティストが集まるパフォーマンスイベントでの柳本小百合を見てみたい。








モナレコードのピアノは黄色と茶色のちょうど中間、色あせた木の色をしています。後で聞いたのですがこのピアノは調律が大変で、見た目で「弾いてみたい!」と触った他のアーティストが「やっぱやめておきます…」と避けるほど。でも、柳本さんは、このピアノとの相性がいい。夜中にモナレコードを訪れて「練習させてください」と触っていたとか。音はゆらゆらとしていて、細い。トイピアノよりピアノとしてのプライドがあって、「まだまだやりますよ」っていう不器用な純粋さが愛らしい。柳本さんの「舞台」にはモナレコードのピアノが必要なのかもしれない。