2011/08/30

laurel roth(ローレル・ロス)「Supernatural」を見てきました。


女装の私がMEGUMIOGITA GALLERYで8月6日まで開催されていたlaurel roth(ローレル・ロス)「Supernatural」を見てきました。



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2m四方を超える大きさのタペストリーからは「生殖」がモチーフの「自然からの越境」というテーマが伝わった。遺伝子によって同じ動きを取り続ける蜂は人間のメタファーともいえる。耳の細胞が移植されて背中に耳が生えてしまったねずみや、クローン羊の親子。二匹の蛇の螺旋構造。ウロボロス。左右に描かれたイッカクは不老不死の薬になると言われた角を巡り、人間は闘争した歴史がある。自然から越境せんがため自然に頼り、自らを滅ぼす象徴、という事なのだろうか。




木を丁寧に磨いて作られた骨の装飾品やクリスタルガラスで作られた動物の骸骨には、自然物と人工物のギリギリ境目が切り取られて表現されている。それは自然に生きる野犬が持つ不自然さなのか、人間が自然を把握しようと造形に執着しても手に入れられない完全な把握を意味しているのか。人間は造形により自然を抽出し、その造形物によって自然を完全に俯瞰し把握しその仕組みに介入しようと試みる。しかし人間が自然から抽出する造形物も自然の一部である。人は自然を越境することはできない。自然は宇宙のその先にまで広がり、謎や畏怖や優しさや美しさを持って人を包み込む。ちなみに、今回展示されていた野犬の骸骨には「野犬(自然)を飼いならしてペット(人工的なもの)にした行為」の象徴だと考えられる。






生理用ナプキンが赤い毛糸で編みこまれている。生理の血にまみれた人間の人工物には、ピルなど避妊用の薬の名前が書かれている。生理用ナプキンや避妊具は生殖という自然に対する人の介入行為と考えられる。美しいとされる体の獲得を目指すために試みられた自然への介入である。






作家は自然への介入(越境を伴う把握)に関する造形へのこだわりを、装飾へのこだわりを通じて表現している。丁寧につくられた作品は美しいが、「美しい」と口に出すことへのためらいを与える。このためらいは、人間が超えようとしても越えられない、超えたつもりが超えられていない、自然への距離を感じさせる。だからこそ人は、私たちは、自然を超えようとする。自然を畏怖し尊敬することなしに、私たちは進化することはないだろう。

2011/08/19

堂島リバービエンナーレを見てきました。【4:最後】池田剛介 原口啓+三木慶悟/藤村龍至/石井七歩


「堂島リバービエンナーレを見てきました。」

アーカイブ
【1】青山悟/アニッシュ・カプーア/森万里子 隅研吾
【2】杉本博司 永山祐子/チームラボ 柿原照弘/新津保健秀+渋谷慶一郎 浅子佳英
【3】安部典子/磯崎新/大庭大介
【4】池田剛介 原口啓+三木慶悟/藤村龍至/石井七歩



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池田剛介 原口啓+三木慶悟「Exform」:堂島リバーフォーラムを入ってすぐ、人工的なが雨降る長方形の板が展示されています。頭上7mの高さから降る雨は、大きな音を立てて板にぶつかります。微妙な隆起が施されたシナベニヤの板には撥水剤がかけられています。板に落ちた雨は板に染み込むことなく、水滴のまま。あるものはとどまり、あるものは坂を降り、またあるものは水滴同士で手をつなぎ水たまりに変化します。大きな水たまりは、小さな水滴では影響のなかった微妙な隆起にひっぱられて大移動し、水滴を喰らい、分裂し、また別の水たまりと手をつなぎ大きな水たまりになり…大移動は板に開けられた小さな穴に到達するまで続きます。穴につながった管の先にはタンクがあります。そこからポンプでくみ上げられた水は、32本のパイプを通じて7メートルの距離を駆け上がり、そして雨になりまた板をたたきます。

自然の循環を表現すると同時に、大地(板)に産み落とされ環境(隆起)によって動かされ他(の水滴)を喰らい肥大し環境また動かされ分裂して死ぬ(大地と同化する)生態系を表現する作品です。水でしかないはずの板の上の水滴を、じっと眺めていると他人(?)に思えなくなる。なんとも不思議な感覚です。仕方ありません。孤独、孤立、出会いからの移動、喰らい喰らわれる移動、別れ、そしてまた繰り返される出会いと別れ。私たちの生活となんら変わらないんですもの。

なぜ私たちは孤独を感じるのか、なぜ別れが予定された出会いを繰り返すのか、喰らいあうのか、死ぬのか。解決の手がかりになるかのようです。人間の70%を構成する水が、人間を形成する前の状態で見せる動きを通じて。







藤村龍至:福島県双葉郡8万人の住民が埼玉県熊谷市郊外に避難移住する構想、リトルフクシマの都市模型が展示されていました。整然とした灰色の模型。その街並みにポツンと大きなスペースが設置されています。毎年3月11日に全住民8万人が福島に向けて黙祷を捧げる鎮魂の広場だといいます。

この作品は、会場内に、まさにポツンと展示されていました。ミニチュアを見下ろす視点、そこに住まうであろう人々への視点、鎮魂の祭儀に対する痛いほどの現実感。建築家である藤村氏のそれは、ビエンナーレの会場で大きく越境しています。静かにくすむその模型は罠にかかったかのような感覚を私に与えました。







石井七歩「理想宮」「理想島」「理想国家」:圧縮された都市に絡みつく黒い髪の毛が、少女のそれに見える作品です。日本という島国は少女に例えられるとか。擬人化された街(少女が擬街化されて…)は、「安全神話」への問題提起です。少女に対して感じる神性と、家や街や国や大地に対する神性は似ているのかもしれません。執拗に描かれた黒い髪の毛と凝縮された街。家や街という単位ですら、神話となりつつあるのかもしれません。




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今回レビューを書かせていただいた作品以外にも、坂本龍一「エコソフィー」/マーティン・クリード「ライトが点いたり消えたり」「全世界+作品=全世界」/杏橋幹彦「涅槃寂静」/齊藤雄介など大作が展示されていました。21日まで、あと少しの会期ですが、機会があればぜひご覧になってください。さまざまな越境/境の消失を感じていただけるのではないでしょうか。




堂島リバービエンナーレを見てきました。【3】安部典子/磯崎新/大庭大介


「堂島リバービエンナーレを見てきました。」

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【1】青山悟/アニッシュ・カプーア/森万里子 隅研吾
【2】杉本博司 永山祐子/チームラボ 柿原照弘/新津保健秀+渋谷慶一郎 浅子佳英
【3】安部典子/磯崎新/大庭大介
【4】池田剛介 原口啓+三木慶悟/藤村龍至/石井七歩



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安部典子:カッターを使い丁寧にくりぬかれた紙の層で作られた作品です。幾重にも重ねられた紙は、空洞や山や断層を表現します。その繊細な形は、自然の痕跡を切り取ります。層により切り取られた痕跡の時間は空間の中で姿を表します。作品は「切り取った痕跡」の時間軸までも表現します。私たちは「作用する力/内在する力の激しさと繊細さ」を、くりぬかれた一枚一枚の紙を想像することで、体験することができます。

壁一面に掛けられた白い作品からは、石をも穿つ水の力を感じます。堂島リバービエンナーレのテーマでもある「エコソフィー」を唱えたフェリックス・ガタリの本、「3つのエコロジー」をモチーフにした作品は、爆発する文字から、本そのものとガタリ本人の言葉の力を感じる事ができます。3.11以降の新聞が大きな力によりくりぬかれた作品は、もちろん、地震の激しい力を表現するものですが、もう一つ。くりぬかれ自然の痕跡に見立てられた層は、人間の文化や知識や精神が記録された「新聞」です。文化や知識や精神はすでに人間を取り巻く環境、つまり「自然」となっているのではないか。

私たちに「自然」の認識の拡張を求めているかのような作品でした。すでに認識が拡張され、ニュータイプやX-MENやネクストの様な存在が身近にいるのかもしれませんが。







磯崎新「孵化過程(再演)」:1962年に制作された作品の再演です。当時は東京オリンピックに向けて東京そのものが改造中でした。関東大震災、東京大空襲、戦争による崩壊から立ち上がり、力強く都市が形成されていた活力のある当時の作品です。3.11以後、地震や津波や原発事故により都市は大ダメージを受けました。経済や国家システムは麻痺しています。復興の計画は見通しが立ちません。戦後を思い起こさせる今、60年代の活力をもって、解決を模索させる作品でした。

そういえば、ジブリ作品「コクリコ坂から」も同時代の活力を感じさせる映画です。復興は方法論では語れません。抽象的ですが「力」とその力を生み出すことができる環境の再構築(再発見?)が大切なのだと、私は思っています。磯崎氏の作品は釘や針金のつながりが生成を表現します。「コクリコ坂から」もカルチェラタンの面々と女学生達のつながりが奇跡を起こします。

閑話休題。懐古ではなく回顧。メッセージの普遍性。今回の展示の中で考えさせる力が最も強い作品でした。







大庭大介「FOREST #1」:先日、森美術館で開催されたG-tokyo SCAIブースでの作品が印象的でした。今回展示されていた「FOREST #1」は大庭氏の作品で一貫して使われている偏光パールで描かれた森です。

会場上部から投射される木漏れ日のような照明によって、森は輝きます。光が投射された森は水色やピンク色や薄い緑色がきらめき、動き、幻想的な世界を見せてくれます。妖精でもいるんじゃないかとさえ思う。私はこの幻想的な様子が大好きでした。さて、木漏れ日は動きます。光が投射されず影となった部分は、陰鬱な森に姿を変えます。暗い森、折り重なる木々、枝に隠れる陰鬱さ。幻想的な森、自然のユートピアは、光を境に表情を反転させます。2つのイメージの間を行き来する作品。

光の当たり方、見る位置、距離、全ての条件がまったく違うイメージを導き出します。ゆらぎ。明確な線を引くことができない状況に対して、どう付き合っていけばよいのか。まるで人付き合い、コミュニケーションの様ですね。

さて、先述しました通り、光によって揺らぐ境目のない幻想的な色が私は好きです。ただ、移動する照明によって陰鬱な表情が見えてしまうので、どうにかして全面に光が当たった状態にできないものか考えました。結果、作品と私の距離を取ることに。杉本博司氏の作品がある地点から「FOREST #1」を眺めると全面が幻想的な絵となります。小ネタですが、見に行かれた際には試してみてください。




2011/08/17

堂島リバービエンナーレを見てきました。【2】杉本博司 永山祐子/チームラボ 柿原照弘/新津保健秀+渋谷慶一郎 浅子佳英


「堂島リバービエンナーレを見てきました。」

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【1】青山悟/アニッシュ・カプーア/森万里子 隅研吾
【2】杉本博司 永山祐子/チームラボ 柿原照弘/新津保健秀+渋谷慶一郎 浅子佳英
【3】安部典子/磯崎新/大庭大介
【4】池田剛介 原口啓+三木慶悟/藤村龍至/石井七歩



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杉本博司 永山祐子「NO LINE ON THE HORIZON」:画面に映しだされているのは海を眺めているかのような大きな水平線でした。ゆるやかな弧を描いたディスプレイの両端にマジックミラーが設置されています。限られたディスプレイの中にある水平線がどこまでも続いているかのよう。1秒間に24コマの水平線が映し出されているこの作品は、水平”線”がまるで幻のように見えます。その先にある無限の世界や、またまだ見ぬ大陸を想像させる水平線。前途洋々。さあ未来へ進もう。いやまて、その水平線は本当にあるのか?幻ではないのか?

線や境目はあやふやな状態にくっきりとした輪郭を与えてくれます。固定します。同時に、あやふやを許しません。まるで法律です、国境です、”はい”と”いいえ”の世界です。揺れ動く水平線は3.11以降の今を表しています。規定された線や境目に疑問を投げかけます。不安定なあやふやを認め、さてこれからどんな線を引くのか。(もしかすると線がいらない時代が来るかもしれない)







チームラボ 柿原照弘「百年海図巻 アニメーションのジオラマ」:会場の2階にこの作品はありました。チームラボさんのサイトに動画が紹介されていました。(これらは堂島リバービエンナーレで展示されていた形式ではありませんが、内容は同じです。)


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私は立った状態で2巡ほど見ていました。他のお客さんは床に座って見ていました。誰も何も言わず、ただただ海面上昇の映像に飲み込まれていました。平面化された奥行きは終わりのない自然、共存しているはずの自然の無限です。折り重なる波の動きに意識を移すと、風の強い日に日本海を眺めた時のような恐ろしさを思い出します。美しい事と恐ろしい事は表裏一体だったなあ、と再認識できる作品です。空間(奥行きの平面化)と時間(100年を数分に圧縮)を切り取り、感覚を表現する技術は素晴らしい。







新津保健秀渋谷慶一郎 浅子佳英ひと目で福島県の映像だとわかりました。黄色に点滅する交差点、信号。少し前まで息づいていた街が、あの日を境に変わっていく灰色のイメージ。放射能という目に見えない恐怖が、なぜか、映像を通じて伝わってくるのです。象徴的な映像でした。その映像には、目立ったアイコン的なモチーフはありません。終わっていない事象はその断片を拾うだけで、全体を私たちに想像させてしまいます。その像が人によって様々な形を取るので始末が悪い。




この作品は、床に置かれたモニターを覗き込むように観賞します。無限ループの映像が流れているモニターの上には、斜めに鏡が設置されています。私は、床に置かれたモニターではなく、映像が反射している鏡を見ていました。斜めの鏡には映像が天地逆転して流れていました。灰色の空は映像の下部分、道路があるはずの場所に横たわり、灰色の道路は雲が広がるはずの空を覆っています。違和感。現実のはずなのに、現実ではない世界。居心地の悪い映像です。




鏡は未来を映しません。正面から覗き込む鏡面は後ろを映します。後ろは過去です。鏡の向こうは過去のメタファーです。鏡に映った映像は3.11より前、過去を映そうとしているのかもしれません。しかし過去には戻れません。もう言ってもいいかもしれませんが、それだけ重大な出来事でした。そもそも3.11は終わっていません。鏡に映った映像(違和感に満ち溢れた現実ではない世界)は、過去に戻ることができない3.11そして福島原発事故の大きさを物語っているかのようです。わかってはいるけど、こうも辛辣に伝えられると、気が滅入ります。直面すべき現実は重すぎる。ただ、私たちはこうした作品を通じて(もちろん日々の時間の中でも実感できますが)前へと進んでいる事進まされている事を確認できるのです。




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アーティストは戦っています。




2011/08/16

堂島リバービエンナーレを見てきました。【1】青山悟/アニッシュ・カプーア/森万里子 隅研吾


「堂島リバービエンナーレを見てきました。」

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【1】青山悟/アニッシュ・カプーア/森万里子 隅研吾
【2】杉本博司 永山祐子/チームラボ 柿原照弘/新津保健秀+渋谷慶一郎 浅子佳英
【3】安部典子/磯崎新/大庭大介
【4】池田剛介 原口啓+三木慶悟/藤村龍至/石井七歩


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堂島リバービエンナーレを見てきました。メイン会場の堂島リバーフォーラムは京阪中之島線渡辺橋駅から歩いて少しの場所にあります。京阪中之島線といえば2008年10月に開業した新しい路線です。なにわ橋駅の出入り口は安藤忠雄氏がデザインした事で話題にもなりました。ま、私は難波から四つ橋線に乗って肥後橋駅から歩きましたが…。




リバーフォーラムに入るとすぐ左が会場。1階の広い空間がメイン会場となっており、ほとんどの作品がそこに展示されています。2階にはチームラボや杏橋幹彦氏の作品を見ることができます。1階に戻って、リバーフォーラム入口の右にあるエレベーターを4階まで上がるとマーティン・クリード氏の作品が展示されている部屋があります。最後に、実は入場料を払わなくても鑑賞できる作品があります。リバーフォーラム入ってすぐの広場に、池田剛介氏のDesert islandに似た作品(人口の雨が撥水加工された板に降る)が展示されています。涼しげ。




3.11以降の地球のあり方。地、水、気。宇宙からの視点でなければ考えられないんじゃないか、というテーマでしたが。とにかく、一つ一つ、気になった作品をいくつか挙げて書かせていただきます。







青山悟:MIZUMA ART GALLERYで見させていただいた青山氏生涯最後の薔薇の作品を再度見ることができました。これからの地球について考える上で、まず私たちにとって身近な労働について考える。青山氏の一貫した労働というテーマは3.11以降に可視化された価値観の変化を示唆します。資本主義社会の仕組みに編みこまれる労働者。滝の様に降ってくる幸福のイメージが大きく揺らいだ今、明らかに労働への見直しは急務です。(青山氏の作品、薔薇と労働については過去のレビューをご覧ください。







アニッシュ・カプーア「PLACE/NO PLACE」:カプーア氏が関わった建築プロジェクトの模型が30個ほど展示されています。自己が服装に表れるように、建築は内包する人を表します。さらに人と建築物は相互に影響し合います。建築をデザインする彼の模型を見ていると、私自身が認めたくない経験や伝えたい体験がそこにあるかのように感じます。会場にいる人たちは皆、意識せずとも似たような感情を覚えたはずです。生物ではない建築物がまるで人間、もしくは人間達のように見えてしまう違和感。




森万里子 隅研吾「ホワイトホール」:会場の一番奥に白くぼんやりとあるドームが作品でした。ウレタン素材でできたドームの入り口をくぐり、薄暗い中を進むと、うすぼんやりと光る部屋に到達します。光源を探して見上げると、直径1m~1.5mほどのドーム型のライトがあり、その中を白い光が少しずつ少しずつ動いています。これは、ブラックホールの時間事象を反転させるホワイトホールを表現したもの。再生です。ゆっくりと光量を増しながら、中心から外周へ螺旋運動をする光は、ブラックホールに飲み込まれた星。星の再生を表現する10分以上の映像作品は3.11以降の「再生」というキーワードに対する提言に感じられます。




白いドームは隅研吾氏が森氏の映像から着想を得て作成されたインスタレーション。ドームを構成するウレタンは99%以上空気を含んでいます。もはや非物質です。ホワイトホールが再生する環境をできるだけ純粋な状態で見せるために作られた環境は、まるで宇宙です。




しばらくこの空間を楽しんでいると、ほんの一瞬だけ、それは1分にも満たない一瞬でしたが、ウレタンの色や質感がビビッドに見えたのです。(白だと思っていたウレタンは少し黄色がかったやわらかい色をしていました。)森万里子氏が表現した星の「再生」は、ただただ単純に輝かしい未来に向けた「再生」では無かったのではないか。「再生」の過程に最も明るい瞬間があり、その後は小さくなり、慣性にしたがって舞台(ドーム型のライト)から下りていったのです。3.11以降の私たちは再生にあるのかどうか。時間軸の反転による再生はないと思う。