2012/01/26

「清川あさみ/美女採集」を見てきました。


女装の私が、水戸芸術館で開催されていた「清川あさみ/美女採集」を見てきました。最終日でしたから、さぞ人が多くなるだろうと思い始発高速バスで水戸へ。9時半の開館時間には既に美術館内にいて、クロークに荷物を預けるという本気っぷりです。それくらい楽しみにしていました。

美女採集より『黒木メイサ×馬』2009年

縦に長い水戸芸術館のスペースをフルに使った展示は第1室から第8室まであります。最初は「美女採集」と題された女優やモデルの写真に刺繍を施した作品です。「インコ」や「カピパラ」など動物をイメージした作品は60点弱ありました。金や銀や赤や青の綺麗な刺繍糸が、波紋や唐草や光線といった模様を描き「美女採集」を創り上げます。ビーズや刺繍はそれ自体が美しく、また美しいモデルを使った写真に新しいレイヤーを重ねるかの様に見えますが、実は針をさしている、縫い付けている。拘束や固定といったイメージなのかもしれませんが、私は被写体そのものの美しさが少しずつ失われていくイメージを感じました。つまり「美女」という語感が勝手に持つ輪郭の無いイメージを、縫いつけなぞり境界を明確にして留めている。こぼれる「美女」のイメージを必死にすくい上げているような、そんな印象です。その必死さ(勝手に感じているだけかもしれませんが)にとても共感しました。

Complexシリーズ『greed』2009年

「美女」が勝手に持つイメージを刺繍を通じてすくい上げている、と書きました。清川あさみさんの刺繍作品は、留めようとするけれどこぼれてしまう被写体の持つイメージをすくう「ネット/網」を思い起こさせます。「Complex」シリーズもまさに、こぼれ落ちる「コンプレックス」が写真に施された刺繍から垣間見えます。写真そのものは全く同じ物を使いながら、刺繍によってイメージが全く異なって見える「Complex」シリーズ。例えば「greed」では金の糸と銀の糸の刺繍で豪華なドレスを形作ります。強欲さがにじみ出る。「fat」では被写体の周囲に脂肪を模した美しい刺繍。腰回りの浮き輪が再現されていました。「aging」では肌に刻まれる皺を、「hairy」では体毛を、それぞれキラキラひかる糸を使った刺繍で形作ります。刺繍で装飾をしなければ身体に閉じ込められ蝕むコンプレックスを、綺麗な形を縫いつけることでこぼしていく。「コンプレックスは本当は美しい、大切なものなんだ」という月並みな言葉ではなく、もっとシンプルに、「作業(刺繍)」で解消していると言っているのかもしれません。

『もうひとつの場所』より 『エンペラータマリンの箱』2011年

絶滅危惧種、絶滅種をモチーフにした第5室。このような作品に出会わなければ絶滅種や絶滅危惧種について考えることはありません。生きている姿を想像することなんてありません。「オオアリクイは絶滅危惧種なんだ」「ドードー鳥は絶滅しちゃった…」と思っていても、数日経ってしまえば忘れてしまうでしょう。残るのはキラキラとした刺繍の網のイメージだけ。どれだけ縫いつけても境界をなぞっても、どうしても固定できない留めておけない、すくい上げてもこぼれてしまう「絶滅」したという事実。願わくば、キラキラと光るビーズや糸の輝きが「絶滅」に抗う生命のあがきたらんことを…。なんてね。

同じ部屋に展示されていたのは、4人の美女を絶滅危惧種に見立てた新作「4つの場所」。作品は刺繍が施された縦に長い写真でした。距離を置くと全容が掴めます。せっかくだからと近寄って見ると見上げなければなりません。ところが見上げるとせっかくの美女は見えず、刺繍部分しか見えなくなりました。写真に照明が当たり紙にプリントされた内容が何一つ確認できなくなったのです。その個人にとって「美女」の持つイメージは絶滅危惧と言えます。刺繍を通じてそのイメージを留めようとする必死さそのものが美しかった。

『4つの場所-01』 Model:真木よう子

清川あさみさんが刺繍をほどこしている姿を想像すると、固定や拘束よりも足掻きに似た「必死さ」を感じます。ただ、第6室にあった都市に吹く風や気の流れを刺繍で風景写真に縫いつける作品群からは、それは感じられませんでした。ただただその刺繍が美しかった。歪んだ都市は、その場所が持つ有機的な流れによって再構築される。もちろん、縫いつけるその姿からは必死さがにじみ出るでしょう。ただそれ以上に、人ではなく都市に向いた姿勢はまっすぐで迷いがなかった。人ではなく動物でもなく都市が被写体になっているという違いが、つまり被写体と清川あさみさんとの距離がそうさせるのかもしれません。

『HAZY DREAM』2009年

グラフィックワークとしての清川あさみさんの作品は、写真と写真に縫いつけられた刺繍とそれを撮影した作品という二重三重の構造を持っていました。秋元康氏が作品集に寄せた「美しさを留めるための刺繍」や「美しさを被写体に縛り付ける美の調教師」というイメージは、わからないでもありません。ところが水戸芸術館での展示は写真と写真に縫いつけられた刺繍が作品です。距離がひと単位近いだけで、大きく印象が変わります。もうひと単位、清川あさみさんに近づいてみたいなあ。多分そうさせてはくれないだろうし、重ねられた構造はたぶん複雑で何百年も解かれない数式。作家個人の世界が強烈に感じられる展示でした。


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水戸芸術館 HP
■清川あさみさん

HP:http://www.asamikiyokawa.com/
DIARY:http://www.asamikiyokawa.com/diary/

2012/01/18

MOTコレクション「特別展示|淺井裕介」を見てきました。



女装の私が清澄白河の都立現代美術館で1月15日まで開催されていた「特別展示|淺井裕介」を見にいきました。普段は一人でのんびりじっくり見ることが多い私ですが、この日は偶然「ガイドツアー」に参加することができました。受付をしていると「あと数分でスタートします」と言われたのでね。これはいい機会だ、という事で参加いたしました。常設展のツアーです。「布に何が起こったか?|1950-60年代の絵画を中心に」と「木の時間、石の時間」、そして「特別展示|淺井裕介」のツアーをしていただきました。本記事では全てを書くと長くなりますので特別展示についてのみ書かせていただきます。

3階への階段を上がり、手前に戻ったスペースに淺井裕介さんの作品が展示されていました。高い天井ギリギリまで描かれた大きな作品が数点あります。私が訪れた時は作成途中の絵の横に高く組まれた金属製の足場がまるで工場現場のよう。その空間に足を踏み入れると何か懐かしい印象を受けます。においがするのです。展示スペースには、なぜか、山や森の土のにおいがしていました。気になりつつ絵に目をやると細かい模様、犬(狐?)のモチーフが描かれています。昔の絵本でみたようなデフォルメされている、でも神話的、プリミティブな絵が楽しげ。茶系の色が多く使われています。単一の系なのに、どこか生き生きとしている。もっとよく見ようと絵の描かれた壁に近づくと足元で「ジャリッ」と音がしました。土です。

泥絵・母山

展示されていたのは泥や土を用いた「泥絵」シリーズでした。大きな板に土と水だけで描かれた作品です。時間が経つと剥がれ落ちてしまいます。私が踏んだのは、絵から落ちた土のかけらでした。淺井裕介さんは泥絵を描く時、その土地で採取した土を使います。私はこれらの作品に対して、彫刻に近い印象を受けました。彫刻は「ある形になるように彫る」のではなく「それ(木や石)が内包している形を彫り出す」行為です。「それ(木や石)が内包している形」は「魂」とか「記憶」と表現されます。「魂」や「記憶」といった抽象的なイメージが、例えば、人や動物や幾何学的な模様や何にも属さない形を借りて「彫り出される」結果が彫刻です。特定の土地で採取された土を使って制作された泥絵はその土地の彫刻のようでした。土地に刻み込まれた土や草木や動物、時間や神話に似たイメージが、土の中から掘り出されて表現されている。

泥絵・父の木

過去の泥絵は横浜港村「昆虫の森」や熊本の「土のこだま」、群馬の「母山」や博多の「一本森・父の木」などたくさんあり、またそれぞれが巨大です。「その場所の声を聞きながら、壁に描いている」彼の作品を私は今まで観たことがありませんでした。今回の都現美が初泥絵。もっと前から彼をチェックして様々な土地の泥絵を見ておきたかったと、少し後悔しています。

都現美で使われた土がどこで採取されたものなのかはわかりません。作家ご本人がいらっしゃれば聞いたのですが。清澄庭園の土を使ったのでしょうか。それとも今まで訪れたことのある場所で採取した土を総動員したのでしょうか。もしかすると東日本大震災に関連する土地の土かもしれませんね。とにかく。特定の土地を感じるのではなく、そういうった地理的な境目はなくなり、もっと抽象的な「自然」や「地球」、いや違いますね…、豊穣や肥沃をイメージさせる神様、母に近い印象。山で、例えば雨上がりを想像してください、土のにおいがしていると落ち着きませんか。圧倒的に大きな自然の前にいる自分の小ささ、矮小な自分は自覚しているけれども包まれているという安心感。それに近い空間を、淺井裕介さんは作っていました。

個々の作品もとても素敵だったのですが、それ以上に私は、展示空間が好きでした。


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都立現代美術館 HP
■淺井裕介 HPtwitter
※画像は以下のサイトから転載いたしました。
http://d.hatena.ne.jp/asaiyusuke/

2012/01/11

「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」を見てきました。:Bankart 3F

女装の私が「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」を見てきました。54とたくさんの作品がありました。全てを書くと長文になってしまいます。会場となったBankartは1F〜3Fにわかれていましたので、その階ごとにまとめて書かせていただきます。最後に3Fの作品。


Bankartの3階には25人の作家さんの展示がありました。印象に残っている作品は4つで、尾木はるかさん、有坂亜由夢さん、川村麻純さん、西田みのりさん。ん。4つのうち、3つが映像作品でしたね。


いきなりですがトビウオを食べた事がありますか?私はありません。屋木はるかさんは居酒屋で「トビウオ」を食べました。彼女は、居酒屋で食べた「トビウオ」の絵をお腹に描き、トビウオの生まれた海の近くにある島へ行き、お腹の「トビウオ」を海にかえし、海のトビウオと共に泳ぎます。この記録映像が、屋木はるかさんの作品でした。

「トビウオ」が消化される24時間、彼女は一切何も口にしません。「トビウオ」により動く自分の身体を実感します。海に入るまでの間、彼女は「トビウオ」によって生きる。夢のような、でも、たぶんほんとうの話。10数cmしかない小さな「トビウオ」そのもの実在感は、身体をつたって支配して彼女は「トビウオ」になる。泊まったホテルでお腹に描いた「トビウオ」を確認すると、絵の具が剥がれ落ちて、少しずつ存在感が薄れていきます。フェリーを降りた屋木はるかの足元がおぼつかないのは、「トビウオ」の栄養がなくなって彼女がただ疲れただけなのか、小さな「トビウオ」の存在が、つまり命とやらが消え入りそうになるはかなさなのか何なのか。

「トビウオ」一匹だけで24時間生きる疲労は、彼女に小さな「トビウオ」の存在を発見させるものだったでしょう。フェリーを降りた瞬間の彼女の足のふらつきに、自分の身体を「装置」として使い普段は看過してしまう何かを意識させて非日常化する彼女の作品を感じます。

お か え り 2009年 記録冊子

映画館で見かけるショートムービーのような淡い映像は完成度が高く、見ていて安心できるものでした。あまりにも安心して見てしまっていたので、つい「足のふらつき」を見逃しそうになりました。あぶないあぶない。


呪術的な模様が描かれた壁の向こうの薄暗い部屋に映像が流れる有坂亜由夢さんの作品に、私はしばらく見入ってしまいました。「深山にて」と題された映像は、山か森の奥に人…動物…霊…なんだかわかりませんが、青い物体がぎこちなく動くものでした。場面は変わりウネウネと気持よく(ただ、この場合は怪しさが勝っていましたが)動くアニメーションが続きます。私の大好きなタイプ(1秒あたりのコマ数が多い!)の映像でした。さて、しばらく見ていると、またまた場面転換。次はどこでしょう。これは…部屋?

じっと見ていると、部屋にある全てのものが動きだします。タンス、急須、湯のみ、障子、こたつ、後は覚えていませんが、とにかくそこにあるもの全てが、ストップモーションアニメで動きます。広告で使われるようなデフォルメされた動きではなく、徹底的に「魂」を感じさせるものでした。人ではない、しかし人の、生きている人ではなく死んだ後に残る霊的な何か、つまり魂。

カタログで有坂さんは「anima(霊的なもの)」を「animation」で明快にしていく、とおっしゃっています。確かに明快に「霊的」だった。人は残り香でしかなく、それはもう部屋であり、家で、つまり家が魂を持ってました。家の「霊的」なイメージですらこれだけ不思議なのだから、家の立つ土地(この場合は山かな)の「霊的」なイメージはどれほどか。おそらく私が最初に見た青い物体は、魂が凝縮した物体なのかもしれない。

さようならの観察 2010 映像(4分

その部屋は台東区にある古民家だそうです。確かに人が長く住んでいない部屋に人ではない何かがいる(ある)事は、私も知っています。余談ですが、この感覚には熟成度があって、人が住んでいない期間によって変化します。少し前まで人が住んでいたんだろう部屋は、またこれも生々しい感覚で、何かがいる(ある)し、長い間住んでいない部屋は生々しさが熟成して発酵して抽象度があがり、つまりシンプルに怪しい何かがいる(ある)のです。

次に有坂さんが作る映像も見たくなります。


2枚の縦長のスクリーンが10mほど間をおいて立てられ、それぞれに女性の映像が流れています。映像の中の女性は、基本的に動きません。しかし写真ではないので、まばたきや表情の疲れによるかすかな動きが見られます。また体勢に無理のある女性は、時々身体を動かします。年齢は20代後半から50代くらいまで。それぞれに関係性はなさそうです。最初、女性に関係性(姉妹や親子)を探しましたが、徒労でした。ただただ女性が映される。

Mirror Portraits 2011 映像インスタレーション

私たちは壁際に置かれた椅子(位置はスクリーンの中間ほど)に座り、ヘッドホンを装着します。真正面を向いても映像は目に入りません。左を向いたり、右を向いたりしてはじめて、そのスクリーンが視野に入ります。

ヘッドホンからは女性の声が聞こえます。母親について語っています。映像の女性が喋っているわけではなさそうです。声の質がほぼ同じです。変わりません。では誰か別の人、例えば作家の川村麻純さんご自身が母親について喋っているのかといえば、それも違うようです。語られる母親像は様々で、だから、映像の女性が母親について語っているのでしょう。もしかすると、この女性の娘が母親について語っているのかもしれません。こうしたインタビューを通じて写真の背景にある物語を伝え、母親としてもポートレイトを表現しているのでしょうか。

作品タイトルは「mirror portrait」です。鏡のポートレイト。私たちが鏡を見ているということでしょうか。母親らしき女性(年齢でわかる)の映像とヘッドホンから聞こえる誰のものともわからない母親についてのインタビューを通じて、抽象化された母親像(私たちの頭の中にある)を感じさせようとする装置なのか。それとも、合わせ鏡? 母親像を無限に増殖させての個の消滅と、誰のものかわからないインタビューによる抽象化。そうして母親を感じさせる装置なのかもしれません。

事実、私も母親を思い出しました。ただ、それは、似たような経験をしたインタビューがあったからではありません。似たような顔をした人がいたからでもありません。「あ、母親ってそうだよね」という極めて抽象的な最大公約数的な感覚を手に入れた瞬間に、私の母親を思い出しました。不思議な感覚ですよね。全くの他人のポートレイトを見ながらにして、自分の母親を思い出すのですから。


西田みのりさんは中之条ビエンナーレへの出展経験のある作家さんです。空間を使ったインスタレーションに「いいなあ」と思わせる仕掛けが沢山ありました。まず靴を脱ぎます。そして、膣から子宮に戻るように私たちは姿勢を低くして小さな穴をくぐります。その先は高さ2mほどある板の壁がぐるりと円を描いて私たちを取り囲みます。直径はだいたい5mほど。黒く塗られた板、その周りの壁は真っ黒い布で覆われています。真っ暗です。中心よりすこし外れた床にスポットライトがあたり、直径50cmほどの円を作っています。その光の中に立ってみました。

「コーン…コーン」と何かを打ち付ける音が聞こえます。その他に聞こえる音はほとんどありません。不安です。ふと女の人の話し声が聞こえました。女の人の声はよく聞こえますね、やっぱり。人の声が聞こえると、ちょっと安心します。そうこうしているとスピーカーを見つけました。「コーン…コーン」という音の犯人ですね。ちょうど真正面の壁に設置されています。近寄り音を確認します。せっかく壁際に来たのでぐるりと外周をまわってみます。暗い作品の中で、まだまだ目が慣れません。ゆっくりゆっくりと足を運ぶと、途端に不安な気分が私を襲います。話し声だと思っていたのは泣き声でした。女性の泣きじゃくる声が聞こえます。いやいやいやいや、やめとくれ。こんなところでそんな幽霊みたいな・・・と、思っていたら、小さなスピーカーを見つけました。泣き声はそこから聞こえていたのです。

泣き声に耳を近づけてしばらくそのままでいました。最初は「怖い」と感じていた泣き声を、今は落ち着いた気分で聞くことができます。というよりも、泣き声を聞くことで落ち着いているのかもしれません。真っ暗なこの空間は光がありません。無機質な「コーン…コーン」という音は、私たちの生を脅かします。生が感じられない中での生きている人の声。それが泣き声であったとしても、嗚咽混じりの号泣であったとしても、そこに人がいる(かもしれないという)気配が与える強烈な安心感を与えてくれました。

しるべ 2010年 サウンドインスタレーション

子宮を感じさせる空間で「泣き声」に出会った私は、いくつもの感情の起伏(それはとても繊細で瑞々しいものでした)に気づくことができました。胎児だったころの私が子宮の中で感じていたのも、似たような起伏だったのかもしれません。


長文失礼いたしました。1〜3Fまで54作品。全てが見応えのあるものばかりでした。

「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」レビュー
Bankart 1F
Bankart 2F
Bankart 3F

※その他、3階の作品:
ウニのようなカタチのセンサーの塊の大和田俊さんの作品。新聞に国旗を投影させる水野博之さんの作品。岩手の「なにゃどやら」という盆踊りのパフォーマンス、水本紗恵子さん。アクリル板に墨でライブペイント、渡利紗千子さん。メディア芸術祭アート部門受賞の山本良浩さん。バスタブ、関透真さん。電話がいくつもある土肥志保美さん。同じ状態が起こる可能性が極めて低い光と音のコラボレーション、松本昭彦さん。ベッドに色々なものが落ちてくる映像の、伊澤秀幸さん。大きなスクリーンに小さく海外ドラマが放送される川村喜一さん。細胞のオブジェ、関麻里さん。赤い靴の女性の足が怪しい(でも美しい)権藤隆平さん。鉄砲をぶちぱなす女性、柳井信乃さん。こたつのパフォーマンスの菊地裕貴さん。窓の映像、磯野迪子さん。壁にお経の様な文字がたくさん書かれた、大塚真理子さん。宗教ががアニメする中島麻未さん。大きな剥製が4体天井からぶら下がる、金ヨン志さん。東京の風景画、高橋大右さん。和風のオブジェ、三浦博美さん。計算式にもとづく針金のオブジェ、小林真太郎さん。

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上記記事で使用した画像は下記サイトより転載いたしました。
http://www.geidai.ac.jp/event/sentan2012/

2012/01/10

「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」を見てきました。:Bankart 2F


女装の私が「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」を見てきました。54とたくさんの作品がありました。全てを書くと長文になってしまいます。会場となったBankartは1F〜3Fにわかれていましたので、その階ごとにまとめて書かせていただきます。次に2Fの作品から。(3Fは後日掲載します。)


Bankartの2階には21人の作家さんの展示がありました。印象に残っている作品は4つで、北澤潤さん、Adam Hosmerさん、渡部怜さん、片山真里さん。


2階に上がってすぐ右側のスペースを覗くと映像が流れているのが見えます。そこは大掛かりなセットが組まれていて、竹でできた階段と、竹で組まれた居間の様なスペース。これが北澤潤さんの作品です。その日はヒールを履いていたので「あ、失敗した」と思いながら恐る恐る階段を登ると、居間の様なスペースは縁側になっていて、足を投げ出して座ることができました。せっかくだからと座って足をぶらぶらさせる。映像はネパール郊外の町に作られた「居間」に人々が訪れる風景で、今私が座っている竹の縁側と同じようなものがそこにありました。

LIVING ROOM IN NEPAL 2011

北澤さんがこの町をまわって集めた家具や道具がその「居間」に置かれています。町の人が「居間」を訪れては、語り合い、道具を使い、物々交換で新しい道具を置いていく様子。子どもがはしゃぎ、おじさんは寄り合い、知り合いを呼び寄せては日々の(多分)くだらない噂話をする。集まる人の数が増えたり減ったりしていて、単純に「増えました!」という訳でもなさそう。家具や道具もただただ変化しているとだけ言える様子。

日本の家の「居間」は極めてプライベートな空間です。家の中ですから。しかし視点を家族内に移せば、「居間」は家族における公的な空間/パブリックスペースと言えるかもしれません。来客時は特に。「居間」を拡張することで、公的な空間を実践し、関係した人たち(まちの人)に経験してもらう。私が関わっている墨東まち見世に近いものを感じました。町の中にアート拠点をひらき、様々な人を受け入れる事で、恐らく、「居間」として機能していたのではないかなと。

「居間」は共有スペースでありながら強制力はありません。通り過ぎるだけでもいい。何かそういう制限の緩さみたいなものが、北澤さんの作品から感じます。人が集まる、コミュニケーションするきっかけとしての「居間」。さて、ここは居住スペースだったのかどうか、気になります。



Adam Hosmerさんの写真はとても強烈でした。グロテスクと感じることもできるし、美しいと言えるかもしれない。ポートレイト。背景は自然の風景で、例えば、森の中だったり空の雲で、まあ所謂風景写真で場所がどこかは具体的にはわかりません。そこには人だったであろう物体が描かれています。手が震えた状態で描いたような強烈に揺れた線で何かを描きます。色や、だいたいの形で、それが手や口や歯や目や足で、つまりいくつかの写真をコラージュしてできた人なんだろうという事がかろうじてわかるのです。

違和感と存在感だけは強烈で、目を背けたくなる程。しかしながら、じゃあそれはそこに実際にいるのかどうか、という実感?実在感?は全くありません。幽霊や妖精や神様に似ていて、「お前は幽霊だってことはわかるが、じゃあ、お前は誰なんだ?」という抽象的であることが具体的になりすぎている空虚さがその写真にはあって、だから美しくもありグロテスク。

日本に移り住み、環境(宗教や文化)が変わることで変化するアイデンティティについてAdam Hosmerさんは考え、この作品が生まれました。あらかじめ人の写真をコラージュして形作ったベースの上からデジタルドローイングをし、最後にベースを削除することで人の具体性を削除する。そうしてアイデンティティを無くしたポートレイトが出来上がります。

willa 2009年 デジタルドローイング

抽象的な概念に具体的なカタチを与えて作られたのが妖怪だとしたら、人から具体的なカタチを奪い去った抽象的な概念がこの写真。人から生まれた抽象的な概念の恐ろしさに気づけたのは、よかったのかなんなのか…



渡部怜さんの「あいだの肖像」が印象に残っている理由は、その場にいられなくなったから。45x30の楕円形の額がずらりと壁3面に一列で並べられています。肖像と肖像の間の距離は短く、窮屈な印象を与えてくれます。額の中は薄暗く、肖像であることは確かなのですが、その年令や性別は様々で表情も全てがバラバラです。この肖像に映る人は生きているのか死んでいるのかわかりません。

あいだの肖像 2011 ゼラチンシルバープリント

「人と人のあいだにある空気がうつっている」と渡部さんはカタログでおっしゃっています。これだけ大量で、そして生死もわからない人と関係することは、私にはできませんでした。都合のいい距離を見つける事もできませんでした。展示空間に入るだけで、その空気に、空気の密度に圧倒され、ここは生きている人間が立ち入る場所ではないと。

後味の悪い作品は、個人的には好きではありません。「あいだの肖像」は後味が悪い作品でした。ただひとつ言える事は渡部さんの写真には「あいだの空気」が確かに存在しているということ。それは撮影の技術なのか見せ方の技術なのかそれ以外の何かなのか、うまくは言えませんが、作品として強烈に機能していた事は否めません。

私たちはそういう空気をあいだに置いて生きている。



展示する場所との関係や、場所によって文脈が変わる作品、その場所でしか成り立たない作品、といった話は、地域アートプロジェクトに関わることでよく聞くようになりました。片山真里さんの作品は場所を選びません。少なくとも私はそう感じます。極めてプライベートな作品は、場所の影響を受けず、ただただ「これが片山真里だ」と断言して存在していました。

untitled 2010 2010年までの作品インスタレーション(nca)

床に割れたハートを模して義足や何かの瓶詰めや抱きまくら、ダンボール、テナントなどが配置されています。これらは片山さんの部屋にあるもの全てを用いたと言います。展示中、全てのモノが搬出されたお部屋は全く何も無い状態で、誰の部屋なのかがわからない状態。つまりこの作品は片山真里さんの部屋そのもので、つまり、彼女のプライベートの凝縮です。全ての制限や文脈を無視し、自身を凝縮したカタチで伝えることそのものが作品。私の勝手な解釈かもしれません。しかし彼女の作品を見ると、そう感じざるを得なくなります。

壁には早朝と夕方に片山さんの自室で撮影されたポートレイト。これは「ハイヒール」と題されていています。アメリカから取り寄せたハイヒールを履いて歩ける義足を手に入れた彼女の作品。義肢を取り巻く日本の環境は不十分で、歩く事以外の選択肢を用意していません。当たり前と思っていた選択を再確認させる力を持つポートレイトもまた、片山真里さんにとっては極めてプライベートな作品でした。


私が作品を訪れた際、彼女のご家族がいらっしゃっていました。お母様、お父様、妹さん、お祖母様。作品の前にご家族が並び、記念撮影をされていました。その瞬間のことです。作品がよりプライベート性を帯び、力強くなりました。貴重な経験。なかなか無いと思います、こんな偶然。



またまた長くなってしまいました。Bankartレビューは3階を残すのみ。これもまた素敵な作品が多くて長文になりそうです。

「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」レビュー
Bankart 1F
Bankart 2F
Bankart 3F

※その他、2階の作品:
ゲームで震災に関する世界を経験できる西田陽美さんの作品。赤い玉がディスプレイ間を飛び越える映像の宇都緑さんの作品。男と女の区別がつかない二人の写真(恐らくどちらも女性)の小杉阿有子さんの作品。新聞をモチーフにした李さんの作品。CGで合成された顔の写真の泉卓志さん。多様な視覚とサウンドスケープ、という論文展示の張世用さん。船、花崎草さん。高橋洋介さんはご自身でデザインされたパンフなどを展示。虹をつくるプロジェクトの上坂優衣子さん。尖閣諸島が沈む映像、潘逸舟さん。影の彫刻、知念ありささん。12歳の頃つくったモンスターを再構築した出水あすかさん。水鳥が飛び立つ清水なつみさん。美術の時間、足立真悠さん。

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上記記事で使用した画像は下記サイトより転載いたしました。
http://www.geidai.ac.jp/event/sentan2012/

2012/01/09

「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」を見てきました。:Bankart 1F


女装の私が「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」を見てきました。54とたくさんの作品がありました。全てを書くと長文になってしまいます。会場となったBankartは1F〜3Fにわかれていましたので、その階ごとにまとめて書かせていただきます。まずは1Fの作品から。(2F〜3Fは後日掲載します。)



Bankartの1階には8人の作家さんの展示があります。展示されている作品は7つ。2つのパフォーマンス(1つは展示を使うパフォーマンス)が行われていました。印象に強く残っている作品は3つで、水島ゆめさん、鈴木平人さん、千種成顕さん。



人間の体の一部が万華鏡のように繰り返される三角錐がフラクタル図を模して並べられた、水島ゆめさんの作品。壁を大きく使って三角錐が配置されていて「綺麗だな」と思いました、最初は。よく見ると、同じ図形が繰り返し使われています。その図形の側面には肌色の、だから肉の…体のどこかが使われているんだろうと思い、もっと近づきます。案の定それは体の一部で、手や足の写真が折り紙のように折られ、重ねられ、組み上げられて三角錐を作っていました。

Crystallize 2011年 立体、その他(光沢紙、他、160×160×20(cm))

それは増殖する細胞をイメージさせます。新陳代謝を繰り返す細胞。いや、細胞よりもっと小さな分子の構造かもしれません。科学の教科書に乗っていた分子の構造は英数字と丸と棒でした。温度も無い、呼吸もしない、笑わない。そんな分子が、温かくて生きていて笑ったり泣いたりする生き物を構成していることに、子どもながら「すごいなあ」と思っていたのを思い出します。その真逆。

無機質で幾何学的で増殖するにしても機械的に計算されて増えるような、そんなイメージが手や足からできている。美しい。確かに美しいのですが、もやもやとした、見なくてもよかったのに、知らなくてもよかったのに、という感情が残ります。同じもので再構築された何か別なもの。自分が享受している事(美しいと感じるものや、気持ちがいいと感じるもの)の多くが奇跡によって生まれていると、改めて知りました。


千種成顕さんの作品は、Bankart1階の右側奥にあります。「入口」と書かれた黒い幕の向こう。映像を使ったインスタレーションでした。入ってすぐは見えません。立っていると黒い幕しか見えません。座る、いえ、屈んでください。地面から約70cmほどの高さにまで頭を、視線を落とさないと映像は見えないのです。黒い犬がピンク色の綱を引きずる映像が5m程先のスクリーンで流れていて、私たちと映像の間に黒い物体があります。映像に登場している犬でした。

犬は海辺や山を歩きます。ピンク色の綱を引きずりながら歩きます。海辺では足元が不安なツルツルした岩の上を歩き、時々水に浸かって慌てて岩の上に戻ります。外国のような殺伐とした山を歩いている映像もありました。植物の背が低かったから、あれは結構高い山の上とみた。ただひたすら犬が歩く映像を映すスクリーン、その前に映像に登場した犬がピンク色の綱をつけて、寝ている。

カタログ(¥1,000です。お買い得)に「人が不在の世界を受け止める」と題され「今ここに存在しない自分を作り出す場」としての作品であると説明があります。確かに人が不在の映像で、今そこに存在している犬(寝ていたけど)がそれを助けます。また「屈む」という行為が普段の自分(人間として生きている)と違う視点を与え、それが通過儀礼のような役割を果たしているなとも感じます。しかし、どうしても、撮影している主体(作家さん)を意識する、つまり「人、存在してるじゃん」と思ってしまうのです。人が不在の世界を人が感じることなんてできるのか。犬に感情移入したらそれが可能なのか。私はできなかった。

そういえば昨年、取手で見た千種さんの作品は蟻になった彼が発泡スチロールの家に住むというものでした。建築の仕事をしていた千種さんが作成した建築模型に蟻を這わせた途端、その空間に存在感が生まれたという経験に基づく作品。「今ここに自分が存在している」という実存感を人はちょっとした錯覚や勘違いで得ることができます。蟻に自己(もしくは人)を投影した千種さんのように。なるほど。私はその錯覚や勘違いを使い「人が不在の世界」に「自分が存在している」という実存感を得ることができなかったという事か。ふーむ。

100/12010 ミクストメディア、インスタレーション、パフォーマンス


17:00ごろからBankart一階のカフェ横のスペース(屋外)で鈴木平人さんのパフォーマンスがありました。彼が昔おばあさまから聞いた、おばあさまの従姉妹である「木更津の女王」について、おばあさまを演じることで語るという作品です。

割烹着を着たり、白いメイクをしたり、ほっかむりをしたり、床にチョークで絵を描いたり、バケツで海から水を汲み取って絵にかけたり、水を絵にかけたり、水をかけたり、ブラシでこすったり、こすってこすって床を綺麗にしたり、これがおばあさまを演じる彼の身体の動き。そして最後は袴をたたむ噺家のごとく丁寧にきっちりと割烹着とホッカムリをたたんで終演です。

彼は常に口を動かし、木更津の女王について語ります。おばあさまから聞いた話を語ります。海にバケツをほうり投げる時も、チョークで床に絵を描く時も、彼の口は木更津の女王について語り続けます。鈴木さんがおばあさまから話を聞いていた時は、まさかこんな事(バケツとか)はしていなくて、たぶん縁側かどこかで座りながら聞いていたんだと思いますが、もしかすると…。まあ、それは無いでしょう。そこにいない人の死の話を聞くことの喩えとしての動きなのかもしれない。

そこにいない人、実際に会ったことの無い人の話を聞くと、頭の中でその輪郭は歪みます。最初はある程度綺麗にトレースされていたとしても。大きくなり、小さくなり、重なり、増殖し、最後は水に流される。繰り返し聞かされる事で、その人(この作品の場合は木更津の女王)の虚像を起点に、話をしてくれた人(おばあさま)の象が歪みます。彼の作品には「水」と「反復」がよく出てきます。そこに無いもの、本人の記憶にも実感の無いものを表現しようとすることで、演じている主体が歪む。ただ、確実なのは反復と水だけ。

どれだけ多くの思い出があやふやで思い出す度に違っているのだろう。脆弱なイメージ象。でも何か一つはもしかしたら確実に思い出す事ができるのかもしれません。いやあ、海にバケツをほうり投げて水を汲み水をバッシャーンとした時はびっくりしました。実際に、唐突に起こる何かによって記憶って消されるもんですよね。寒かったけど、見れてよかった。

水を噛む 2010年 パフォーマンス


とても長くなってしまいましたね。Bankartレビューはまだ続けます。あとは2階と3階です。後日公開。

「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」レビュー
Bankart 1F
Bankart 2F
Bankart 3F

※その他、1階の作品:
大きな木を無数の小窓が着いたタンスで覗き見る武藤舞子さんの作品。展示スペースの壁と壁を歪んだダクトパイプで繋いだ米重慧一郎さんの作品、ドラム缶の上に車が逆さまに(ルーフがへしゃげてる)めり込んでいる木村泰平さんの大掛かりな作品。シャンデリアがあって、レトロな電話があって、ゴージャズな2〜3人がけの椅子(座るところにはネイルチップ、裏側にはチューインガム)の西澤友美さんの作品。ヌイグルミが喋るロックな大西香澄さんのパフォーマンス。


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上記記事で使用した画像は下記サイトより転載いたしました。
http://www.geidai.ac.jp/event/sentan2012/

2012/01/07

蓮沼執太フィル公開リハーサル/個展atMOTブルームバーグ・パヴィリオンを見てきました。

女装の私が、東京都現代美術館・ブルームバーグパヴィリオンで開催されていた蓮沼執太個展『have a go at flying from music part 3』と、地下2階にある講堂で開催された、蓮沼執太フィル公開リハーサル/アーティストトークに行ってきました。

蓮沼執太という人の名前はよく聞いていました。イケムラレイコさんの展示で聞くこともありました。快快Y時のはなし』で名前を見たことがあります。山城大督さんがtwitterでつぶやいていた『Hello Everything』のMusicVideoも見ました。でも、蓮沼執太が何なのか全くわかりませんでした。ただわかるのは音楽と結びついているということ。

Hello Everything (VIDEO)

蓮沼執太フィルの公開リハーサルが東京都現代美術館の地下講堂であると知り、私は向かいました。すでにリハーサルは始まっていて、その時練習していた曲は『Earphone & Headphone in my Head』。広い講堂に人が円を描いて集まっています。最も外側は観客で、座ったり立ったり、思い思いの姿勢で真ん中を向いていました。音楽がかかっている時に上半身を揺らす人もいます。微動だにしない人もいます。その次に蓮沼執太フィルのメンバーが座っています。円の中心を向いて。彼らの視線の先にはスピーカがあります。これが円の中心でした。楽器の音はシールドを通じて(一応PAを通って)円の中心に集まり、放出されます。音は波を描いてフィルのメンバーとその外側にいる観客に伝わります。

蓮沼執太フィル・ニューイヤーコンサート2011 at VACANT

円形だから周りを見渡すと(たぶん)そこにあるモノが全て見えます。その場にいる人はみな自分の好きなように時間を過ごしていたような気がします。「リハーサルとはいえ演奏してるんだから◯◯しなければならない」という決まりはその場には感じられませんでした。座ってもいいし、立ってもいい。喋ってもいいし、黙って聞いてもいい。なぜそんな「感じ」が存在していたのか。フィルが自分たちの好きなように演奏していたからなんじゃないか。

それはリハーサルで、練習で、英語で言えばpracticeという単語になり、このpracticeは実践という意味があります。実践はつまり「やってみた」って事でそれは一回限り、同じものはない。じゃあ、本番も一回限りだし、練習も一回限りなわけだから、自分(演奏してるメンバー)の向き合い方とか気持ちとか体の状態に本番用も練習用もなくてその一回限りの実践に最もしっくりくる状態で取り組んでいる自分ってのがあるだけ。それをわかりやすい言葉で言うと「好きなように演奏している」ってことです。

で、そういう「好きなように演奏している」音が円の中心から広がって私たちに伝わります。「好きなように演奏している」姿が見えます。聴覚と視覚で「好きなように演奏している」が伝わるから、私たち(観客)も「好きなように」その場を過ごすことができます。

講堂がひとつの空間、まあ、世界だとしてそこにいる人は世界を共有しているわけです。同じものを。物理的に。円の中心を全員が向いているから、死角が無い。(もちろん、円の中心近くにいると自分の後ろが見えないから全てが見えているとは厳密には言えないけど、対角線上に相対してほぼ同等の風景があると考えたら、死角が無いと同じです。暴力的な言い方かな。)つまり、世界を共有しつつ同じ物を見ている。同時に「好きなように」過ごしている。あなたとわたしは他人だから「好きなよう」な過ごし方は違う。違うけど同じ。同じだけど違う。

蓮沼執太の作り出す空間は、気持ちのよい空間でした。違うけど同じ。漠然と境目を感じながらも、同じく漠然と境目が無いと感じられる。彼が多くの人に愛されている、でもそれはゆっくりと、太陽が地面を温めてその温度で草が育って花が咲いて実がなってそれを口にして幸せな気分になるような、そういう速度で愛されているのがよくわかります。


同美術館ブルームバーグパヴィリオンで開催されていた蓮沼執太個展『have a go at flying from music part 3』も、とても気持ちのよい展示でした。三角の部屋に入ると、3つのスピーカーとプロジェクターから音と映像が流れます。音は映像であり映像は音であり、その境目が消失した空間を感じる、という展示。

集音マイクに視点があったとしたら視覚と聴覚を同時に記録できるのではないか、を実験した映像でした。つまりマイクにカメラを付けて撮影した映像です。さらにその音を編集して曲にする際、音の編集ソフトを使用せずに映像編集ソフトを使用して曲を構成しています。あくまで音は映像であり映像は音であり、その境目は無く、同じものでした。

パヴィリオンは三ツ目通りに面した屋外に設置されています。車の騒音が激しい場所です。そして陽射しが強い。パヴィリオンは大きなガラス窓が側面にあり光を集めます。蓮沼執太の作品(の映像)は、昼間は見ることができません。太陽光がプロジェクターの光よりも強い為です。蓮沼執太の作品(の音)は騒音が激しくなれば聞こえません。光も音も「ノイズ」の影響を受けます。ここでも、音と映像の境目はありません。

ふとした時に思い出す風景は、頭の中で、映像と音が同時に再生されます。しかしそれは頭の中という一つの器官で感じる光景。実際は視覚と聴覚という2つの器官を通じて感じたものなのに。頭の中では2つの情報は融合し、で、記憶になる。この融合した光景を、蓮沼執太は見せてくれたような気がします。

もちろん、この境目の無い「感じ」を「気持ちがいい」ものにするには、たくさんの時間、収集と編集を繰り返したことでしょう。選択のセンスも必要だと思う。月並みな言葉だけど、それを実現した蓮沼執太はすごい。改めて「気持ちがいい」という感覚は大切で、それを伝えるのは難しいんだろうなと思いました。太陽だなあ。

2012/01/03

「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」に行く予定です。




女装の私が「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」を見に行きます。昨年の今ごろは取手の展示を見に行きました。先端の展示は2回目。今度は横浜BankArt Studio NYKでの展示となります。

「企画の発足から展覧会の細部に至るまで」が学生と「関係」を持っているといいます。個々の作品だけでなく展覧会全体を俯瞰して観賞できるのではないでしょうか。社会と「関係」し、社会に生きる個々人たる私たちと「関係」する先端芸術表現科の提案と実践の作品が、とても楽しみです。


東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012
気になる作家さんを5人ほど。
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山本良浩さん
双子の女性が別々の場所にいる。柔らかな物腰で、幼少期のある事件を語りだす。鑑賞者は2画面の映像、音声、字幕を同時にうけとり、そこに微妙な差異があることに気づく。片方に注視すると他方が疎かになり、双子の記憶と同時に、細部が混ざり曖昧になる。時間、話者、字幕など様々なレベルでの「差」を体験する映画。 
※「Que voz feo(醜い声)」は第15回文化庁メディア芸術祭
 アート部門の大賞を取った作品。 
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片山真里さん
針仕事と歌う事が好きです。 
※彼女は「美しい」素材がいい。 
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屋来はるか
自分の作品が物として残ることに違和感を覚え、二度と触れることはできないけれど、自分の身体や感覚として残るような物をテーマに制作している。
特に、自ら日常と非日常の間を作り出す装置を作り、そこで起こることを自分の身体を通して体験した記録が作品となっている。 
※「間」をつくりだす装置を見たい。 
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dohi shihomi
境界、移動、間などのキーワードをきっかけに、写真や音、ことばなどを使い、作品をつくってきました。現在はイメージと音のあいだにあるものを探っています。 
※「境界」というキーワードは気になる。「音」が素材にあるのもいい。 
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Minori Nishida
"見えないものと出会う・かすかな気づきに目を留める"ことをテーマにふわりと音などを扱っています。 
※中之条ビエンナーレに出展している作家さん。それだけで 興味がわく。

2012/01/01

ココルーム主催「冬の星座を見る会」@越冬闘争を見てきました。


女装の私が、ココルーム主催で行われた「冬の星座を見る会」を体験してきました。会場となった釜ヶ崎の三角公園(萩之茶屋南公園)はJR新今宮駅〜地下鉄動物園前駅の南にあるドヤ街(日雇労働者の就労場所)にあります。三角公園では毎年末「越冬闘争」が行われます。年末は、シェルターや医療センターや公共の施設(ふるさとの家、禁酒の館など)が正月休みに入るので、凍死や餓死の危険が高まります。周辺のNPO団体が、こうした状況に対して、新しい年を迎えられるように様々な取り組みをしています。これらをまとめて「越冬闘争」と呼びます。

ココルームから三角公園まで歩いて5分ほど。小西さんと植田さんと3人で話しながら歩いていたので気づきませんでしたが、その道は西成警察署のある通りで、先日のレビューで書いた思い出の場所でした。冬の18:00前は既に真っ暗です。夜の釜ヶ崎は初体験。遠くからギターの音と歌声が聞こえてきます。アンプを通した音で、野外ライブのようです。煌々と明かりのついた公園が遠くに見えます。近づくと、炊き出しを待つ人々が列を成しています。列は公園を蛇のように這います。北側の端にステージがあります。アンプはそこにありました。歌の合間に、司会者が大きな声をあげ、労働者を鼓舞します。その他、企画や活動の告知がステージ上で行われていました。「冬の星座を見る会」では、この三角公園に天体望遠鏡を設置し、月/木星/オリオン星雲を見るのですが、その前に近くの「ふるさとの家」で星についての講義がありました。


先生は和歌山大学の尾久土教授。30分と短い時間でしたが、地球の他に宇宙人が生息している可能性について、最新の情報を元に説明をしていただきました。惑星がその周囲を公転している恒星の見つけ方、生命のいる惑星の環境について、隕石などから採取される宇宙のアミノ酸の共通点、何光年も離れている星の距離の測り方、等々。尾久土教授はシンプルなスライド、途中で「邪魔!」とマイクを置いてしまうほどの大きなアクションで、私たちだけでなく釜ヶ崎の人たちにもわかりやすく説明をしてくださいました。

講義はスムーズに進みません。合いの手がところどころで入ります。前に座っていた酔ったおじさんが教授の話を遮って言葉を投げかけます。質問だったり、感想だったり。時間を気にしながら教授は、答えられる質問にはスライドを巻き戻しながら丁寧に答えていました。目の前の説明を取りこぼさないように無駄にしたくないかのように、おじさんの質問は的確です。そして確実に理解を進めます。恐らく自分の理解がある一定の基準に達したのでしょう。最後に大きな声で一言、感想が印象的でした。「人間の粒って ちっ こいなぁ!!!」

質問をしたのは「ちっこいなあ!」と言ったおじさんだけではありませんでした。生命生存の可能性を探るべく火星へ有人探査が向かう話をしている時に「でも、探査に言った人間の影響で生命の証拠が残るんとちゃうの?」と質問をする白髪長髪のおじいさん。「300光年の星の距離を測るって事は往復600年かかるんですか?」と質問した長髪でガタイのいいお兄さん。まるで大学の講義そのものでした。


講義終了。メインイベントの天体観測が始まります。大きな台車をひいて三角公園に向かうと、ステージではライブが行われていました。まばらにある焚き火は大きく燃え上がり、その周りで人々が暖をとっています。ステージから少し離れた場所で天体望遠鏡は組み立てられました。何が起こるんだと興味を持った人が集まります。小西さんの知り合いや、途中合流したのぼるさんのお友達、植田さんが紹介してくださったまっちゃんさん。望遠鏡が完成するまでの少しの間、近況を報告し合います。一年間お疲れ様、なのか、越冬頑張ろう、なのか、活動の勧誘なのか。40年も続く越冬闘争。参加している人々の目的も多様化するのでしょう。

天体望遠鏡が完成しました。尾久土教授が月、木星、オリオン星雲と座標を合わせます。その度に列ができます。長くなる列。望遠鏡を覗いた人は興奮して周りにいる誰かに感想を投げます。それが知り合いだろうがなかろうが関係ありません。とにかく伝えたいんでしょう。私に「ゴツゴツしとった!泡々しとった!あら人が住める場所やないわ!」と全く知らないおじさんが話しかけてきたんですもの。


ココルームに来なければ、「冬の星座を見る会」に参加しなければ、釜ヶ崎のど真ん中の三角公園に来ることはありませんでした。まっちゃんに会うことも、のぼるさんと話すことも、小西さんの「明日があるさ」を聞くこともありません。釜ヶ崎の姿をココルームを通じて見ることができました。それは一側面に過ぎませんが、私は記憶して記録しています。難しい問題、消したい歴史、いわゆる負の(誰にとって負なんだ? という話ですが…)記録は、消そうとする力を影響を強く受けます。釜ヶ崎に限った事ではありませんが、「無かったことにされる」のだけはごめんですね。