2012/02/25

第15回文化庁メディア芸術祭受賞作品展に行ってきました。

女装の私が、国立新美術館で開催されている第15回文化庁メディア芸術祭受賞作品展に行ってきました。展示数が多く、またアート、マンガ、エンターテインメント、アニメーションと部門がわかれていましたので、覚えているものについていくつか触れる程度のレビューにしたいと思います。


Que voz feio(醜い声)
山本 良浩




取手で見た時は展示方法が違いました。今回は大きなスクリーンへのプロジェクション。コントラストもはっきりしていて見やすかったですね。映像の内容のみに焦点があたってわかりやすかった。取手では、部屋の真ん中にガラスがぶら下げられていて、そこに映像が投影されるという展示方法。「相似」と「差異」が透明のガラスに投影され私達と同じ目線の位置に掲げられている。インスタレーションとしても興味深い内容だったのを覚えています。「イメージ、音、文字、展示形式など、映像を「見る」という行為を異なる認識の多重体と捉え、短編映像作品とインスタレーションを制作」している山本良浩さん。これからの作品(映像そのものだけではない)が本当に楽しみです。

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particles
真鍋 大度 / 石橋 素


何かこう時間が進む事というか、変化には大掛かりな仕組みや音が伴うがそれに引き換え目に見える変化の現象は微細で気づくのにそれこそ時間が必要だなあと、とてもうるさい部屋の中で感じておりました。右奥の縦長ディスプレイの端末で八の字に流れる光の玉の点滅を操作することができます。神としての体験。光をみつめる人々の虹彩の収縮をタッチパッドを触る私の動きで操作していることの、ちょっとした快感。作品と一対一で対峙するのとはまた違った体験ができます。これこそメディア芸術祭の醍醐味なのかもしれませんね。

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BLA BLA
Vincent MORISSET


これもparticlesに似た楽しみがありました。私がパッドを使って画面の中のやる気ないキャラクターとコミュニケーションしている様を、15名あまりがただ眺めるという時間を運良く体験することができました。不思議です。私はBLABLAの作品の一部になっていたんでしょうか。どちらを楽しむかは人の性格によって違うと思いますが、私は、もちろん、パッドを使ってご自分でコミュニケーションされる事をおすすめします。家でも楽しめるけどね。
http://blabla.nfb.ca/

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Monkey Business
Ralph KISTLER / Jan SIEBER


可愛いんです。ただニコニコと壁にぶら下げられているその様子を観て、ふと恐ろしくもなりました。同じ動きをしているロボットと自分を重ねる。ニコニコとした無表情で生きているフリ、コミュニケーションしているフリをしているけれども、それは不自然で何かにぶら下げられていて…そして真似るべき対象がいなければ動けない。気づくはずです。私たちの真似をしている猿のロボットを操作しているはずが、主客が交代し、猿によって動かされている自分がいることに。深読みかもしれないですが、反省だけなら猿でもできる、真似だけならロボットでもできる。人間はどこに向かう。

あー。

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Soak Yunsil HEO / Hyunwoo BANG


気持ちい作品だったけれども、もっと大きな布で体験したかったし、たぶんそれが作品のはずだったのでは。

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I MAY HAVE LOST FOREVER MY UMBRELLA Johan GRIMONPREZ


個人の存在はいくらでも曖昧にすることができるけれど、曖昧にしていく過程でその存在が明らかにされていくという感覚。

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即席紙芝居 佐々木 遊太


向島でやってほしいなあ。

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以上。メディア芸術祭受賞作品についてのレビューではなく、メディア芸術祭受賞作品展のレビューでしたー。

■メディア芸術祭
http://plaza.bunka.go.jp/festival/
■第15回メディア芸術祭・受賞作品展
http://megei.jp/
■真鍋大度
http://www.daito.ws/
■BLA BLA
http://blabla.nfb.ca/

2012/02/12

”あざみ野コンテンポラリーvol.2 Viewpointsいま「描く」ということ”に行ってきました。


女装の私がアートフォーラムあざみ野(ART FORUM AZAMINO)で開催されている”あざみ野コンテンポラリーvol.2 Viewpointsいま「描く」ということ”に行ってきました。都内からは少し遠い場所での開催でしたが、淺井裕介/椛田ちひろ/桑久保徹/吉田夏奈とかなり興味深いラインナップ。行かないわけにはいきません。

「描く」ことをテーマにした展示でした。何を使ってもいい、どこで描いてもいい、だからこそ今ここで描く意味を大事にしたいと言う淺井裕介さん。何万本もの線を描きながら「何も描かない」という選択をした椛田ちひろさん。描くことから始めて身体性を獲得し、今は空間をつくろうとする桑久保徹さん。島を描いてしまった吉田夏奈さん。その中でも特に印象深かった、淺井裕介さんと椛田ちひろさんの作品について書かせていただきます。このお二人の展示は1Fスペースにあります。桑久保徹さんと吉田夏奈さんは2Fに展示されていました。

桑久保徹
《Atelier for the Art of Painting》2010年
130.7 x 162.2 cm、油彩・キャンバス
(c)Toru Kuwakubo
courtesy of Tomio Koyama Gallery

吉田夏奈
《FACE TO THE GREEN》(部分)2011年
110×93.5cm、紙・クレヨン・オイルパステル
撮影:早川宏一


■淺井裕介さん
淺井裕介さんの陶芸作品を観るのは初めてでした。マスキングテープを使ったドローイングや、土を使った絵は何度か見る機会があったのですが。展示スペースは2部屋あり、最初に入る部屋はドローイングをメインとした構成でした。アトリエで制作されるものを多く展示されているとのこと。確かに展示や制作をしている”場所”よりも”自分を中心とした場所”の作品でした。よく見ると、ショッピングバッグやレストランのナプキンなどが使われています。そうした道具を使用しているから人間が描かれるのは彼の言う「自然なこと」なんでしょう。都現美で見た泥絵には無かった、人間と精霊(より動物的な造形で)の関係が描かれています。


描くための素材はどこにでもあると言います。絵の具はもちろん、ペン、テープ、石、土、灰。素材をのせる場所も、何でもいい、紙や壁、ナプキンや道路、お皿。手を動かし、素材と場所が触れた瞬間から点となり線となる。「何でもいい」のです。だからこそ「今ここという場所」で描くべき絵の姿を、不自然ではない自然な振る舞いでつくられる作品。直径20cmほどの籾殻の円の中心に置かれた小さな陶器作品”八百万の神たち”の空間は、空気が違いました。こじんまりとしたホワイトキューブが、おじいちゃんおばあちゃんの昔話が聞こえてきそうな、いや、昔どこかで嗅ぎ触り見て走りまわった自分を中心とした原始の風景に変わりました。私の意識はあそこを走り回っていた。わーきゃーと叫びながら。

淺井裕介
《赤砂にノマレル》 2010年、157×109㎝
紙にペン・インク・アクリル・コーヒー
撮影:渡邉郁弘
courtesy of ARATANIURANO


入り口にはカッティングシートを使った《文字森》という作品がありました。文字をモチーフに森を描いている作品です。淺井裕介さんはその場所が人間に伝えようとしている言葉を描いているのかもしれません。書くことと描くことの境界線、人間と精霊(といわれるもの)との境界線。我に返ると、少し恐ろしくなる世界でした。



■椛田ちひろさん
椛田ちひろさんの作品とは昨年アートフロントギャラリーで開催された「目をあけたまま閉じる」展で初めて対峙しました。想像力をかきたてる扉として機能する作品だと記憶しています。そして、ボールペンで何万本もの線を描き、いつのまにかそれが対象物となる過程があるということも覚えていました。境界線が境界面となる。想像の先に椛田さんがいるのかどうか。

椛田ちひろ
《事象の地平線》(部分) 2010年
インクジェット紙・油性ボールペン

これから書く事は椛田ちひろさんの作品に、不必要なスケールを与えてしまうかもしれず、それがとても気がかりです。書かずにはいられないので「気がかり」を抑えて書きます。これまでの文章をお読みになり、「見てみたい」と興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、ぜひあざみ野/アートフォーラムあざみ野(ART FORUM AZAMINO)に行ってください。40mの巨大な作品がつくる空間を体験してください。

さて椛田さんは具体的な何かを一切描かない事で、私たちの想像力を引き出します。強烈に。40本から、時には500本ものボールペンを使って描かれる「何か」はよく見ると線を引くことで描かれた「何か」である事に気づきます。本作での「何か」は「円」でした。(恐らく、結果としてそうなったのでしょう。)長さが不定の円がいくつも連なる40mの巨大な作品は部屋をぐるりと一周します。ただただ黒い円が部屋を取り囲みます。まるで歪んだ鏡に映された像の様に長い円があれば短い円もあります。部屋を一周すると、その「歪み」が距離だけでなく時間までも歪めます。奥に円形に曲げられた鏡が設置され、その歪みを助長します。


ありとあらゆる世界への扉が開いているかの様に、私たちはその黒い「円」から向こうに飛び立ちます。想像の旅がはじまります。ボールペンの光沢のあるインクが鏡のような面を作ります。前に立ってください。黒かったはずの円は鏡となり私たちを向こうの世界へと引きこもうとします。手を伸ばして掴もうとしても、それは線の集約により面となった作品でしかない。私たちは想像することしかできない。だから果てしなく想像する。椛田ちひろさんの作品は、全ての人の想像力を引き受けます。深い愛情、母性、優しさ、と言ってしまうとそれまで。極めて濃度の高い、つまり純度の高い女性性がそれを実現させているのでしょう。

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■アートフォーラムあざみ野(ART FORUM AZAMINO)HP展示HP
■淺井裕介 アラタニウラノHP/twitter
■椛田ちひろ HPtwitter
■桑久保徹 HPhttp://kisstheheart.jp/archives/355
■吉田夏奈 HP
※記事中の画像は上記サイトより引用させていただきました。

2012/02/10

〈Murakami – Ego〉がカタールで開催されているようです。

女装の私がカタールで2月9日から6月24日までthe Museum of Islamic Art on Doha’s Corniche開催されている村上隆氏の個展〈Murakami – Ego〉に行って…これたらいいのですが、行けるわけもなく。海外のブログで紹介されていたので、こちらに転載しつつ、いつかくるカタール行きの機会を願いたいと思います。


会場となるthe Al-Riwaq exhibition hallの外壁には村上隆氏の自画像がずらり。これだけでも相当なインパクトです。実物大を見たい。




展示は、村上隆氏の作品を代表する質感のものから、新作の巨大な作品まで様々。6メートルを超すセルフポートレートバルーンは特に目をひくかもしれません。これは会場の入口で出迎えてくれるとか。


朝日新聞デジタルの記事にもあった縦3メートル横1メートルのキャンパス100枚に描かれた「五百羅漢図」も本記事最後にURLを記載しているページに一部掲載されていました。あえて私のブログでは掲載しないでおきます。こればかりは実際にこの目で見たい。100メートルのそれを目の前にして、それが日本ではなく国交樹立40周年を迎えたカタールにある理由を考えたい。海を超え、大陸を渡り、もしくは空を飛びこの作品に対峙する自分を獲得すること、それ自体が作品として存在するのかもしれません。

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Murakami-Ego
the Museum of Islamic Art on Doha’s Corniche
the Al-Riwaq exhibition hall
9 Feb - 24 June 2012

■本記事に掲載されている写真はCreative Reviewの以下の記事より転載いたしました。村上隆氏の「五百羅漢図」の一部が掲載されていますが、なるべくなら実物に対峙していただきたい。個展は6月24日まで。
http://www.creativereview.co.uk/cr-blog/2012/february/murakami-ego-qatar


honeyee.comにも写真が掲載されていました。。。
http://blog.honeyee.com/tsuzuki/archives/2012/02/08/murakami-ego-pr.html

2012/02/05

【更新1】東京藝術大学 卒業・修了制作作品展に行ってきました。

女装の私が、東京藝術大学卒業・修了制作作品展に行ってきました。東京藝術大学の校舎を活用した大量の展示の中で、いくつか気になる作品・作家さんがいらっしゃったので、こちらで書かせていただきます。量が多かったので、思い出しながら書いています。全て書き上がってからアップすると展示終了から時間があいてしまいます。そこで、ネットならでは。途中でアップし、随時追記していくスタイルで進めます。



小林つばさ はじめるための音
http://tsu83p.jimdo.com/
質感のあるラバーインク(だと思います)が壁に塗られている作品。その形は無造作にも見えますが、何か意図をぶつけているようにも見えます。力強く塗っているよりは慎重に素早い動作で。乾いたインクは支持体(教室の壁の表面)から剥がれようとしています。その力は強く、作品の淵は壁から離れていました。壁を破いて。

「静と動」を同時に描いた「はじめるための音」から聞こえる音は、あるステージから別のステージへ移行する際に必ず感じる境目の距離。動きある作品によって止まっている事が際立つ。単細胞生物の繁殖なのか、水が壁を侵食する様子なのか。曖昧な境目のように見えて、その実はその具体的で強烈な隔たりを意識させます。


中村土光 誰かのドキュメンタリー2012
http://nakamuradokou.com/darekano/
老若男女さまざまな人のインタビュー映像が続く作品です。彼ら彼女らは「誰か」について描写します。「あの人はいい人だった」「愛人だったんだよ」「天使みたいな笑顔をしててね」「暴力はふらなかったけど」確信を持って言う人もいれば、曖昧な記憶を引き出しながら、自らの確認も踏まえて一つ一つ言葉を選ぶ人もいます。気がつくとその「誰か」は男でもあり女でもあり身近な人でもあり遠くに人でもあり、つまり「誰でもない」かもしれない事に気づきます。そんなはずはない。親なのか。親友なのか。何か共通した、つまりインタビューにはどこか交点があるはずだ。しかし、頭の中に誰かを思い描くたびにそれが否定されます。

「誰か」がそこにいるのは確かなのです。そして話す人と「誰か」にある一定の距離は具体的です。インタビューで語られる「誰か」のストーリーには固有名詞が含まれているのでイメージが具体的になります。手がかりが散りばめられているインタビューは、全て別人のストーリーで、具体的な一人についてのインタビューではありません。

そしてふと気づいたのは、思い出しながら誰かについて話す人の美しさです。思い出されながら語られる「誰か」と話している人の関係性の質感です。具体的な証拠を重ねる事で「誰か」を抽象化し、話す人と「誰か」の関係を具体化する。それは親子や友達といったラベリングされるものではなく、ただただ「関係している」ということ。


河野温子 装飾花鳥図
欧文の装飾文字を組み合わせて植物や動物を描いた作品群。文字を組み合わせて何かを形作る作品はどこかで見たことがあるが、河野さんの作品はそれとはまた違う。何が違うのか。動きがあるのです。活版印刷であるにも関わらず書道のそれに似た動き。装飾文字を組み合わせ、静かに作業をしながらもしかしそこには今にも飛びかかろうとする激しい虎の動きを込めている。

人がその意志を伝える為に道具として使用した文字は(主に宗教的な用途で)優美さや荘厳さを付与されました。現在は、文字そのものの美しさではなく、文字はどちらかと言えば可読性を重視され、その文字の組み合わせによって伝えられる内容に焦点が当てられます。説明的な「草花が生い茂り、その陰から鋭く光る目と牙が勢い良くとびかかる」という描写によって私達は状況を思い描きます。

河野さんの作品によって、文字は、組み合わせによる説明的な描写だけでなくその形状の組み合わせによる(文字通り)描写の力を得ました。もしかすると「取り戻した」に近いかもしれません。デザインとしての文字の力を、その活躍の場である社会から遠く離れた野生の力によって呼び起こした。私は展示されていた冊子が欲しくなりました。売ってないのかなあ。



【追ってアップ予定】
片桐佐知子 舞遺灰 刺血
岩井はるか still life
山田沙奈恵 土地を慕う
中島健 消えてなくなるいい景色
小林仁美 正義
竹内英梨奈 parmanent water
市川優衣 妊婦しよう。