2015/09/23

百瀬文さん「レッスン[ジャパニーズ]」を見てきました。 / 引込線 2015 美術作家と批評家による第五回自主企画展

先日から少し頭痛がします。左のこめかみ辺りでしょうか。何とも言えない気分です。さてそんな頭痛を少し引きずったまま(こんな情報は必要ないかもしれないですが)『引込線 2015 美術作家と批評家による第五回自主企画展』を見てきました。


所沢の航空公園駅からバスで10分ほど行った先にある「旧所沢市立第2学校給食センター」を会場にした展覧会は21名の作家と22名の批評家が参加しています。展示だけでなく批評を含めた冊子を発刊するのが特徴で、毎回話題になるのですが、なかなか見に行くことができませんでした。今回は最近活躍されている(かつ個人的に気になっている)作家である百瀬文さんが参加されるということもあり、シルバーウィークを利用して足を伸ばしてみました。


最終日である今日9月23日は川久保ジョイさんと水谷一さんによるパフォーマンス「今日の一局(二〇一五年九月二三日)」が行われていました。行われていました、というと語弊があります。行われる予定でした。「衆議院インターネット審議中継」で国会審議の音声をリアルタイムで聞きながら二人が初めて行う(ルールを知らない)囲碁の勝負。中継が無かった、国会が祝日ということもあって開催されていなかったため順延となりました。聞くと、この順延は織り込み済みとのことです。国会という公に開かれているはず(なんでしょうかね?)のものを多くの人にとってアクセスできないものである、という状況も感じて貰いたかったそうですが、作品としては政治的なメッセージは想定していないとのことでした。


確かにこの国会中継を見ることができないという現実にここ数日引き裂かれています。SNS上で繰り広げられる「国会中継を見よう」「国会前に行こう」といううねりに、社会人としての私は乗ることができません。労働を止めることは生活を止めることに、直接つながらないにしてもその延長にあります。


百瀬文さんの作品は「レッスン[ジャパニーズ]」という映像作品でした。「これは私の血ではありません」という言葉を基本(かどうかわかりませんが)にして、「百瀬さん自身による音声」「日本語字幕」「英語字幕」「百瀬さん自身の手話」「ローマ字の字幕」が延々と繰り返されます。

レッスンテキスト(と言っていいのでしょうか)は少しずつ変化します。「これはあなたの血ではありません」「それは私の血ではありません」「これは私の犬ではありません」「これは私たちの血ではありません」など。毎レッスンごとに映像は暗転し、また別の(といっても上記した少しの変化のみ)レッスンが繰り返されます。


映像中の百瀬さんの髪が少し乱れている時がありました。左目(実際は右目?)が少し引きつっている時がありました。基本は笑顔、のような口の形をしているのですが、時々その笑顔の「度合い」が少ない…真面目な印象を受ける時がありました。音声だけが消え入るような死にそうな悲しそうな声になっている時がありました。手話が明らかに他と違う時がありました。

目の見えない人は百瀬さんが常に(ほぼ)同じ表情であることはわからないでしょう。手話のわからない私は百瀬さんの手話が何を伝えようとしているかわかりません。手話にも日本語と英語があると私の妹(ろう学校の先生)から聞いたことがあります。もしかすると英語の手話と日本語の手話を使い分けていたのかもしれません。しかし何種類もの手話が確認できたので、言語の違いだけではないでしょう。

故意に生み出されている誤解が、なんとなく確認できているのにもかかわらず、それが何なのかわからない気持ち悪さが残ります。discommunicationと言えばいいのかmisunderstandingと言えばいいのか。作品映像との間での相互不理解というよりも、この作品を見た当事者間における相互不理解が前提となっている気がしてなりません。

試しに耳栓をして作品を見てみましたが、どうしても漏れ聞こえる百瀬さんの声が情報として入ってくるので視覚情報のみの鑑賞は無理でした。

そもそも私は日本人であり日本語話者なので、英語を前提とした鑑賞ができていません。その他にも「これは」が「korewa」と書かれていることに最初とまどいを覚えました。「koreha」ではなく「korewa」であることに。「wa」が発音では「わ」であっても表記上は「は」であることに、日本語教師でもない私は慣れていません。

もしかすると私の気付いていない「ズレ」が映像の中にあったのかもしれません。

百瀬さんの作品を見るといつも、当たり前の前提として持っていた価値観(特に身体に直結するようなもの、感覚)を揺さぶられます。今回は言語感覚まで揺さぶられる作品でした。

日々、当たり前のように流れている血も、「私の血では」ないのかもしれません。ああ怖い。


百瀬文さん
http://ayamomose.com/
引込線 2015 美術作家と批評家による第五回自主企画展
http://www.hikikomisen.com/2015/index.html

土屋貴哉「Field running(cut and past)」

利部志穂「垂直の波」

2015/09/22

古澤龍「flow view draing 1,2」を見てきました。 / Denchulab.


平櫛田中邸の階段を上がるとふすまが閉まっていた。開けようと試みたけど少したてつけが悪い。思わず一階の受け付けのスタッフに声をかけて本当に開けてよいか確認してしまった。作家も実は二階にいたらしい。少し力を入れて開けると作家の古澤龍がいた。

ふすまを閉じると部屋は真っ暗だが窓に張られた黒い布に開けられた小さな穴(実際は十字の切れ込み)から流れる光が部屋にある映像を写していた。ピンホールカメラの原理だという。ということはつまり部屋に充満している映像はその向こうにある現実そのものというわけだ。平櫛田中邸の向こう側は谷中霊園。墓地である。今日はシルバーウィーク真っ只中ということもあり観光客の姿が見える。見えるといっていいのかどうか。部屋に充満したぼんやりとした映像でそれが判別できる。

光は全て自然光なので夕方や夜になると見ることができない作品である。部屋に充満していた映像は紛れも無い現在で同時に向こうで起こっていることなのだ。私が今日見た映像は、ほぼ確実に、今日限りでありあの瞬間限りの映像だということになる。偶然よりも強烈な現在だ。否定のしようがない一回限りの映像を私は見たことになる。

これを奇跡と言わずして何という。

二部屋目はレンズを通した映像が障子に投影されている。レンズを通ってきた光は、これもまた現在の自然光だ。ピンホールカメラの部屋よりもピントが合っている。機械を使って自動で焦点を合わせているらしい。より人の目に近いメカニズムだ。一つ目の部屋が眼球の中だとするならば、二つ目の部屋は目の奥の神経とでも言えばよいのか。

とにかく今までにない強烈な体験をすることができた。

古澤龍
http://ryufurusawa.com/
平櫛田中邸
http://taireki.com/hirakushi/
Denchulab.
https://www.facebook.com/events/467611000080105/

[会期]2015 年9 月20 日( 日)~27 日 ( 日)
開場時間/ 11 時~19 時  ※9 月20 日( 日) のみ11 時~17 時
[会場]旧平櫛田中邸(東京都台東区上野桜木2-20-3)
[料金]500 円※建物の保全活用金として
[参加作家]アートとサイエンスのあいだ実行委員会、佐藤史浩+原口寛子、春木聡、古澤龍
[公募審査員]白石正美(SCAI THE BATHHOUSE)、熊倉純子(東京芸術大学音楽環境創造科教授)、椎原晶子(でんちゅうず・たいとう歴史都市研究会)
[主催]NPO たいとう歴史都市研究会、一般社団法人谷中のおかって、でんちゅうず
[特別協賛]アサヒビール株式会社
[助成]アサヒグループ芸術文化財団
[協力]井原市、平櫛弘子氏、東桜木町会、東京芸術大学大学院保存修復建造物研究室
アサヒ・アート・フェスティバル 2015 参加企画

佐藤史治+原口寛子「明日の予報」を見てきました。 / Denchulab.



平櫛田中邸の佐藤原口の作品を見た。展示する場所で撮影する作品の性質上滞在制作となることがほとんである彼らの作品は今回もその場所ならではとなっていた。「明日の予報」というタイトルのこれらは、クロマキー合成を活用した作品になっており、天気予報の合成を想像させる。彼らの作品の元となる作品もあるらしく、それはボストンの公共放送を使って実験されたらしい。

部屋の真ん中に堂々と置かれたテレビに流される映像。その部屋の隅には小さなディスプレイに流れる映像。彼らの作品は探さなければ見つからないものもある。今回は机の下にあるテレビに気づかず通り過ぎるところだった。無造作(ではないんだけど)に置かれた鏡に写った映像が目に入り気づくことができた。



映像はその場所にある物と佐藤原口の動作をクロマキー合成で重ねあわせたものになっている。物の一部が合成用の幕になっているのだろう。例えば靴下の上に別の映像が重ねられているが、歩いている靴下の上に(向こうに)また別の歩いている靴下が見えるという様子だ。

仏像の手の形をした彫刻と共に置かれた映像では、それと同じ形をしている佐藤原口の手に塗料が塗られるとそれに重ねられた(向こうの)映像が見えるが、それは置かれている彫刻そのものである。同じ部屋には顔に塗料を塗る映像が流されていて、それは原口の顔に塗料を塗るとその向こうに佐藤の顔があり、佐藤の顔に塗料を塗ると平櫛田中の作品である仏像の顔があり、さらに仏像に塗料を塗ると原口の顔がある、という循環がなされている。


ただクロマキー合成をしている映像というのでは面白くない。彼らは撮影時に周辺の音や映像の紛れ込みをそのまま記録している。それは夏祭りの風景や声かもしれない。車が通る音。足音。鳥の声。子どもの賑やかな声。ラジオ。風が木を通りすぎる音。全てが重ねられている。合成の向こうにある音かもしれないし、合成の元となる映像の音かもしれない。もしかしたら、私が今聞いている音かもしれない。偶然が重なりあい、たぶん、一度として同じ状況で映像を…作品を鑑賞することができない。

佐藤原口の作品はクロマキー合成をした人の動きや思惑で「場所の記憶(というと聞こえがよすぎるかな)」とやらが再演されているように感じる。記録を辿り記憶を想像し再演することでしか私たちは「記憶」とやらを意識することはできない。場所の記憶を感じるのはそれを想像し再演する私たちだ。たどたどしい動きや気持ちの良い繰り返し、揃わない椅子や手や顔、淡々とした食器の整理。場所の記憶というものを想像する時に必ず生じるズレや偶然を作品は示している気がする。


天気予報は過去の莫大な量の情報と現在の情報から導き出された確率を予め報じている。アナウンサーの動きに重ねられている天気図は未来の予報であり同時に過去の情報の蓄積でもある。そしてその今と過去の情報(天気予報)を見ている私たちは、その日の気分(高い確率を信用するか疑うか)でこれからの動きを決める。それは全て偶然に起こる奇跡的な現在である。

そんなことを思いながら佐藤原口の作品を見ていたら、平櫛田中邸の抱える歴史とやらを重荷に感じることなく軽やかに外へ出ることができた。

佐藤史治+原口寛子
http://satouharaguchi.tumblr.com/
平櫛田中邸
http://taireki.com/hirakushi/
Denchulab.
https://www.facebook.com/events/467611000080105/

[会期]2015 年9 月20 日( 日)~27 日 ( 日)
開場時間/ 11 時~19 時  ※9 月20 日( 日) のみ11 時~17 時
[会場]旧平櫛田中邸(東京都台東区上野桜木2-20-3)
[料金]500 円※建物の保全活用金として
[参加作家]アートとサイエンスのあいだ実行委員会、佐藤史浩+原口寛子、春木聡、古澤龍
[公募審査員]白石正美(SCAI THE BATHHOUSE)、熊倉純子(東京芸術大学音楽環境創造科教授)、椎原晶子(でんちゅうず・たいとう歴史都市研究会)
[主催]NPO たいとう歴史都市研究会、一般社団法人谷中のおかって、でんちゅうず
[特別協賛]アサヒビール株式会社
[助成]アサヒグループ芸術文化財団
[協力]井原市、平櫛弘子氏、東桜木町会、東京芸術大学大学院保存修復建造物研究室
アサヒ・アート・フェスティバル 2015 参加企画