女装の私が清澄白河の都立現代美術館で1月15日まで開催されていた「特別展示|淺井裕介」を見にいきました。普段は一人でのんびりじっくり見ることが多い私ですが、この日は偶然「ガイドツアー」に参加することができました。受付をしていると「あと数分でスタートします」と言われたのでね。これはいい機会だ、という事で参加いたしました。常設展のツアーです。「布に何が起こったか?|1950-60年代の絵画を中心に」と「木の時間、石の時間」、そして「特別展示|淺井裕介」のツアーをしていただきました。本記事では全てを書くと長くなりますので特別展示についてのみ書かせていただきます。
3階への階段を上がり、手前に戻ったスペースに淺井裕介さんの作品が展示されていました。高い天井ギリギリまで描かれた大きな作品が数点あります。私が訪れた時は作成途中の絵の横に高く組まれた金属製の足場がまるで工場現場のよう。その空間に足を踏み入れると何か懐かしい印象を受けます。においがするのです。展示スペースには、なぜか、山や森の土のにおいがしていました。気になりつつ絵に目をやると細かい模様、犬(狐?)のモチーフが描かれています。昔の絵本でみたようなデフォルメされている、でも神話的、プリミティブな絵が楽しげ。茶系の色が多く使われています。単一の系なのに、どこか生き生きとしている。もっとよく見ようと絵の描かれた壁に近づくと足元で「ジャリッ」と音がしました。土です。
泥絵・母山
展示されていたのは泥や土を用いた「泥絵」シリーズでした。大きな板に土と水だけで描かれた作品です。時間が経つと剥がれ落ちてしまいます。私が踏んだのは、絵から落ちた土のかけらでした。淺井裕介さんは泥絵を描く時、その土地で採取した土を使います。私はこれらの作品に対して、彫刻に近い印象を受けました。彫刻は「ある形になるように彫る」のではなく「それ(木や石)が内包している形を彫り出す」行為です。「それ(木や石)が内包している形」は「魂」とか「記憶」と表現されます。「魂」や「記憶」といった抽象的なイメージが、例えば、人や動物や幾何学的な模様や何にも属さない形を借りて「彫り出される」結果が彫刻です。特定の土地で採取された土を使って制作された泥絵はその土地の彫刻のようでした。土地に刻み込まれた土や草木や動物、時間や神話に似たイメージが、土の中から掘り出されて表現されている。
泥絵・父の木
都現美で使われた土がどこで採取されたものなのかはわかりません。作家ご本人がいらっしゃれば聞いたのですが。清澄庭園の土を使ったのでしょうか。それとも今まで訪れたことのある場所で採取した土を総動員したのでしょうか。もしかすると東日本大震災に関連する土地の土かもしれませんね。とにかく。特定の土地を感じるのではなく、そういうった地理的な境目はなくなり、もっと抽象的な「自然」や「地球」、いや違いますね…、豊穣や肥沃をイメージさせる神様、母に近い印象。山で、例えば雨上がりを想像してください、土のにおいがしていると落ち着きませんか。圧倒的に大きな自然の前にいる自分の小ささ、矮小な自分は自覚しているけれども包まれているという安心感。それに近い空間を、淺井裕介さんは作っていました。
個々の作品もとても素敵だったのですが、それ以上に私は、展示空間が好きでした。
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■都立現代美術館 HP
■淺井裕介 HP/twitter
※画像は以下のサイトから転載いたしました。
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