バッドルーテナント



「Fitzcarrald」の衝撃が忘れられず、ヴェルナー・ヘルツォークの映画だという情報だけで観に行ったわけですが。まあ、最初から最後まで苦笑いが私の顔から消えることがなかった。薬漬けの不条理な世界ですから、魂がブレイクダンスしますわ、イグアナがテーブルの上を歩きますわ、なんでもあり。しかし、刑事テレンスは、最初から最後まで「刑事」だった。そういう映画。





ハリケーンカトリーナが街を破壊しつくしたニューオリンズ。逃げ遅れた囚人を助けた刑事テレンスは表彰されるが、その時に負った腰の怪我がもとで、薬漬けに。ギャンブルに溺れ、薬を求めて暗躍する。不法移民の一家が惨殺される事件の捜査を続けていたが、愛人の高級娼婦のフランキーが招いたトラブルから事態は思わぬ方向へ。





暴力の限りを尽くし、コカインとヘロインを吸い続け、ギャンブルに溺れ金に溺れ、ギャングに情報を売る。悪役としか思えない、悪すぎる素行ばかりが目立つが、どっこい、刑事テレンスは刑事なのだ。私はそう思った。麻薬常習者にありがち(らしい)の、不可思議な行動を取っていても、つまり愛人と捜査の証人となる少年を同じように扱うなんて事をしていても、最終的には刑事なのだ。老婆の鼻のチューブをひっこぬいて脅迫まがいの事をしながらも、それでも、根底は(たぶん)刑事なのだ。





人は弱いから、間違うことはあるよ。麻薬やギャンブルや酒や暴力を肯定するわけじゃないけど、どうしようもない存在が人間なんだもの。ヴェルナー監督もそれをわかって、不条理をわかって、この映画を撮ったんだろう。わかりやすい善意は、本物じゃない。薄っぺらいメッキが剥がれたその先には、ありえない弱さが待っている。その弱さを受け入れて、悪行を在るものとして認識して見据えて、その先に本物がある。人間らしい善意がある。善意と言うと陳腐だなあ。なんて言えばいいんだろうか。邪悪なものに打ち勝った、人間の強さ、かな。





極めて楽観的な感想だが、同じ人間という種族である以上、アメリカ人だろうが旧西ドイツ人だろうが日本人だろうがなんだろうが、最後の最後に残った「らしさ」は共通であってほしい。それが何かの救いであってほしい。そんなパンドラの匣の希望に似た監督の強い想いが感じられたのだが、考えすぎだね、これは。笑いたければ笑えばいいさ。笑ってすませる映画だから。それでいいなら、それでいい。私は、この映画を観て、胸が痛くなるほど泣いたさ。