2016/05/11

子供鉅人「真夜中の虹」を見てきました。

南森町のマンションに住んでいた頃は気が病んでいて会社から帰ったら寝て夜中の2時位に起きて夜の高速道路のそれこそオレンジ色の光の下を歩いたりベランダから外を眺めて聞こえてくる怒号とか泣き声に思いを馳せていた。

徘徊しているのは老人だけじゃなくて若い人もいたし立ち小便をしている人もいたし、でも笑っているし、でも他人でも別世界の人でもなんでもなくて自分だってすぐそこに行ってしまう際にいた。生活ってそういうもので、それはギリギリだったとかそういう告白ではなくて、大阪はそういう世界が隣にあった。それが当たり前だった。

弱音もはいた。泣きもした。助けてくれと懇願したこともあるし、手をひっぱられバイクに乗せられ川の土手に放り出されて笑われたこともある。喧嘩は他人事ではなかったしセクハラもイジメも万引きもヤクザもヤンキーも糞尿も垢も浮浪者も野良犬も全て毎日そこにあって、その隣にすごい綺麗な人が立っていたり笑顔が綺麗で青っ鼻たらす子どもが走っていたりもした。

鼻歌で自転車をこいで落ちているものを拾っては笑顔で去る不審者なんてたくさん(言い過ぎかもしれないけど)いたし、扉をあけたまま寝ていた老人の寝相が悪くて死体みたいに廊下にはみ出ているのを跨いでその奥のお宅に新聞を投げたこともある。パン屋の仕込みはいつも早くていい香りがしたのが懐かしい。

現実味があったんではなくて現実だった。


私は東京にきて現実を見なくなったんじゃないかと怖くなった。子供鉅人「真夜中の虹」はあまりにも辛くて酷い現実の夜を笑い飛ばす作品だ。笑えなんかやしない。痴呆の妹を抱えて生きる兄を可哀想だなんて思えない。「見つからんかったらよかったのにな」と溢れる本音を受け止められますか。「お茶でもどうですか」と無自覚の暴力を投げかける女を前に必死に逃げようとする兄の気持ちに感情移入してしまうのは、私の祖父が(ry

勝手に気持ち盛り上げて結婚を切り出すどうしようもない役者崩れの男がかっこいいですか。それをうまくいなしつつ喜ぶ女はどうですか。他人の不幸が誰かの幸せのきっかけになるっていうんですか。それが美談ですか。笑えますか。ええ、笑いましょう。感動しましょう。なんていい話だ。男は夢に向かうでしょう。でも女は男の元を去るでしょう。そういうものです。笑いましょう。笑わないとやってられませんさ。


真夜中にこそ現実の根っこが悲しい虹を見せつける。ああしんどい。つらい。でも現実の根っこに触れなければ何かを失ってしまいそうな気がする。夜更かしをしようか。でも私の年齢がそんな無理な生活を許さない。朝にはシャワーを浴びて会社に向かわなくては生活できない。

こんな話を書いてしまう益山さんが怖い。次の作品も見るのが怖いけど、見るだろうと思う。

2016/04/09

THE UNFAITHFUL REPLICA / CA2M at Madrid を見てきました。

Madrid郊外にあるMostolesというエリアにCA2M〜Centro de Arte Dos de Mayoというアートセンターがあります。そこで行われていた THE UNFAITHFUL REPLICAというグループ展で気になった作品。





 3点の映像と大掛かりなインスタレーション。映像内容は衝撃的で、住む場所を強制的に追い出される住民の映像。なんと作家の名前をメモしていなかった。展示のコンセプトシートは持ち帰ったものの、そこに書かれている作家の名前に無いような…誰かご存知の人がいたら教えてください涙




展示タイトルにある「REPLICA」は英語では「複製品」という意味ですが、スペイン語になると「(相手の意見や非難などに)言い返す」という意味を、何か別のものを提案する、返答する行為を含みます。UNFAITHFUL(不誠実な)返答とはどういう意味なのでしょうか。

コンセプトシートにあった「アートは、アーティストが本来意図していたことを変化させ、修正し、裏切る。」という一文が気になります。続く「裏切りは鑑賞者の想像の中で展開される」という一文がダメ押し。

参加している作家は「1つしか意味を持たない言葉やイメージ」が必ず失敗することに自覚的です。言語から言語へ、ある素材から別の素材へ、歴史のある側面からもう一方へ、常に意味が行き来してお互いを意味しあう作品が展示されていました。


Pier Paolo Pasoliniの作品は終わりの無い物語でした。鑑賞者は私でもあり、また作品の中にも存在していました。糸から解き放たれた操り人形の「自由」は複数の意味を行き来します。



お払い箱となった主人公はゴミ収集車に揺られて捨てられます。車の運転手が口ずさむ悲しい歌声は美しい空に、雲に吸いこまれます。主人公は捨てられた野っ原で、雲を眺めます。自由を掴んだ彼は清々しく美しい笑顔に。そこで映像が終わり…かと思うとループ。最初に戻ります。死と引き換えに掴んだ自由で眺めた雲を見たときと同じ笑顔でまた糸につながれて、主人公の操り人形は控室に並びます。





喜劇のような人形劇の映像を見ているはずだったのですが、終わりのない議論の只中に投げ出されたような気分になる作品でした。

2016/02/29

北川貴好さん、「地上階には、つながらない邸宅」を鑑賞してきました。

北川貴好さんの「地上階には、つながらない邸宅」(としまアートステーション)を鑑賞している間、実はずっとイライラしていました。告白すると。回遊したエリア、特に中心となる駅周辺があまり得意ではないのにもかかわらず、人混みの中で立ち止まったり気を使って端によろうとしたらぶつかりかけて睨まれたり。どうして私はこんな思いをして鑑賞しているんだろうかと悲しくもなりました。


まあ、それも異界への扉を開く儀式だと思えばよいのでしょう。ぶつくさ言いながらも、インストラクションに用いられたキャラクター(カッパやアシカやウサギやモグラ)との愛嬌あるやり取り(っていっても擬似的な会話であって、実際は会話させられているっていう強制も実はイライラしたんだけど)を進めました。気が付くと、普段意識したことのない単位で街(街という言葉を使いましたが、作品中は都市空間、邸宅そのものと言った方がいいでしょうか。)を見ることができました。ありきたりな言い方ですが、普段想像している世界とは違う場所にいるような感覚です。次元の狭間にある都市空間、邸宅。境界そのものへの潜入。ファニー・ヴァレンタインのD4C(いともたやすく行われるえげつない行為)の攻撃を受けているかのような感覚。中学生の時に、周りにいる人全てが宇宙人で私一人が地球人なんじゃないかという妄想に近いもの。


地上に出ることのない空間を邸宅として再設計された空間を体験する作品。実際、この都市空間の中で生活している人がいるのだと想像すると、いかに「地域アートプロジェクト」で想定している生活の現実が限定的だったか思い知らされます。そういえば墨田区にもタワーマンションが何本も立っていきます。新しくすれ違う生活者が、まるで異星人ほどかけ離れた都市空間で生活しているかもしれないことは、想像しておいてもよいのかもしれない。

安易に「他者」って言葉を使いがちだけれども、その「他者」は想像できないくらいに複雑に増殖し増幅して隣人となりそこにいるんだなと思うと、なんて面白いんでしょう。わくわくします。はらはらします。


さて、作品中に流れる映像で、地上階につながらない邸宅としての都市空間と実際にそこにある(地上にある?)街との比較というか関係について触れている部分がありました。街を見る解像度が変わればそれはそれぞれの生活から細胞の一つ、ぼやけた輪郭の「生活らしきもの」まで抽象化/変化します。

ただ同じことは、地上階につながらない邸宅としての都市空間に生きる個別の生活者についても同じことが言えると思います。邸宅内の無数の部屋で暮らす人々の生活もまた、容易に抽象化できます。単純な良い悪いの話ではない。空間と空間を直結させた地上階につながらない邸宅としての都市空間が既存の街を破壊するとか無視するとかそういう議論ではない。ただただ異次元かのような都市空間がその場に設計されていること、それを所与の空間として生活している人がいる(かもしれない)こと、生活の多様性はもはや多次元にまで広がっている(と言っても過言ではない)ということ。

現在の複雑をより理解しやすくしてくれる作品でした。

2015/09/23

百瀬文さん「レッスン[ジャパニーズ]」を見てきました。 / 引込線 2015 美術作家と批評家による第五回自主企画展

先日から少し頭痛がします。左のこめかみ辺りでしょうか。何とも言えない気分です。さてそんな頭痛を少し引きずったまま(こんな情報は必要ないかもしれないですが)『引込線 2015 美術作家と批評家による第五回自主企画展』を見てきました。


所沢の航空公園駅からバスで10分ほど行った先にある「旧所沢市立第2学校給食センター」を会場にした展覧会は21名の作家と22名の批評家が参加しています。展示だけでなく批評を含めた冊子を発刊するのが特徴で、毎回話題になるのですが、なかなか見に行くことができませんでした。今回は最近活躍されている(かつ個人的に気になっている)作家である百瀬文さんが参加されるということもあり、シルバーウィークを利用して足を伸ばしてみました。


最終日である今日9月23日は川久保ジョイさんと水谷一さんによるパフォーマンス「今日の一局(二〇一五年九月二三日)」が行われていました。行われていました、というと語弊があります。行われる予定でした。「衆議院インターネット審議中継」で国会審議の音声をリアルタイムで聞きながら二人が初めて行う(ルールを知らない)囲碁の勝負。中継が無かった、国会が祝日ということもあって開催されていなかったため順延となりました。聞くと、この順延は織り込み済みとのことです。国会という公に開かれているはず(なんでしょうかね?)のものを多くの人にとってアクセスできないものである、という状況も感じて貰いたかったそうですが、作品としては政治的なメッセージは想定していないとのことでした。


確かにこの国会中継を見ることができないという現実にここ数日引き裂かれています。SNS上で繰り広げられる「国会中継を見よう」「国会前に行こう」といううねりに、社会人としての私は乗ることができません。労働を止めることは生活を止めることに、直接つながらないにしてもその延長にあります。


百瀬文さんの作品は「レッスン[ジャパニーズ]」という映像作品でした。「これは私の血ではありません」という言葉を基本(かどうかわかりませんが)にして、「百瀬さん自身による音声」「日本語字幕」「英語字幕」「百瀬さん自身の手話」「ローマ字の字幕」が延々と繰り返されます。

レッスンテキスト(と言っていいのでしょうか)は少しずつ変化します。「これはあなたの血ではありません」「それは私の血ではありません」「これは私の犬ではありません」「これは私たちの血ではありません」など。毎レッスンごとに映像は暗転し、また別の(といっても上記した少しの変化のみ)レッスンが繰り返されます。


映像中の百瀬さんの髪が少し乱れている時がありました。左目(実際は右目?)が少し引きつっている時がありました。基本は笑顔、のような口の形をしているのですが、時々その笑顔の「度合い」が少ない…真面目な印象を受ける時がありました。音声だけが消え入るような死にそうな悲しそうな声になっている時がありました。手話が明らかに他と違う時がありました。

目の見えない人は百瀬さんが常に(ほぼ)同じ表情であることはわからないでしょう。手話のわからない私は百瀬さんの手話が何を伝えようとしているかわかりません。手話にも日本語と英語があると私の妹(ろう学校の先生)から聞いたことがあります。もしかすると英語の手話と日本語の手話を使い分けていたのかもしれません。しかし何種類もの手話が確認できたので、言語の違いだけではないでしょう。

故意に生み出されている誤解が、なんとなく確認できているのにもかかわらず、それが何なのかわからない気持ち悪さが残ります。discommunicationと言えばいいのかmisunderstandingと言えばいいのか。作品映像との間での相互不理解というよりも、この作品を見た当事者間における相互不理解が前提となっている気がしてなりません。

試しに耳栓をして作品を見てみましたが、どうしても漏れ聞こえる百瀬さんの声が情報として入ってくるので視覚情報のみの鑑賞は無理でした。

そもそも私は日本人であり日本語話者なので、英語を前提とした鑑賞ができていません。その他にも「これは」が「korewa」と書かれていることに最初とまどいを覚えました。「koreha」ではなく「korewa」であることに。「wa」が発音では「わ」であっても表記上は「は」であることに、日本語教師でもない私は慣れていません。

もしかすると私の気付いていない「ズレ」が映像の中にあったのかもしれません。

百瀬さんの作品を見るといつも、当たり前の前提として持っていた価値観(特に身体に直結するようなもの、感覚)を揺さぶられます。今回は言語感覚まで揺さぶられる作品でした。

日々、当たり前のように流れている血も、「私の血では」ないのかもしれません。ああ怖い。


百瀬文さん
http://ayamomose.com/
引込線 2015 美術作家と批評家による第五回自主企画展
http://www.hikikomisen.com/2015/index.html

土屋貴哉「Field running(cut and past)」

利部志穂「垂直の波」

2015/09/22

古澤龍「flow view draing 1,2」を見てきました。 / Denchulab.


平櫛田中邸の階段を上がるとふすまが閉まっていた。開けようと試みたけど少したてつけが悪い。思わず一階の受け付けのスタッフに声をかけて本当に開けてよいか確認してしまった。作家も実は二階にいたらしい。少し力を入れて開けると作家の古澤龍がいた。

ふすまを閉じると部屋は真っ暗だが窓に張られた黒い布に開けられた小さな穴(実際は十字の切れ込み)から流れる光が部屋にある映像を写していた。ピンホールカメラの原理だという。ということはつまり部屋に充満している映像はその向こうにある現実そのものというわけだ。平櫛田中邸の向こう側は谷中霊園。墓地である。今日はシルバーウィーク真っ只中ということもあり観光客の姿が見える。見えるといっていいのかどうか。部屋に充満したぼんやりとした映像でそれが判別できる。

光は全て自然光なので夕方や夜になると見ることができない作品である。部屋に充満していた映像は紛れも無い現在で同時に向こうで起こっていることなのだ。私が今日見た映像は、ほぼ確実に、今日限りでありあの瞬間限りの映像だということになる。偶然よりも強烈な現在だ。否定のしようがない一回限りの映像を私は見たことになる。

これを奇跡と言わずして何という。

二部屋目はレンズを通した映像が障子に投影されている。レンズを通ってきた光は、これもまた現在の自然光だ。ピンホールカメラの部屋よりもピントが合っている。機械を使って自動で焦点を合わせているらしい。より人の目に近いメカニズムだ。一つ目の部屋が眼球の中だとするならば、二つ目の部屋は目の奥の神経とでも言えばよいのか。

とにかく今までにない強烈な体験をすることができた。

古澤龍
http://ryufurusawa.com/
平櫛田中邸
http://taireki.com/hirakushi/
Denchulab.
https://www.facebook.com/events/467611000080105/

[会期]2015 年9 月20 日( 日)~27 日 ( 日)
開場時間/ 11 時~19 時  ※9 月20 日( 日) のみ11 時~17 時
[会場]旧平櫛田中邸(東京都台東区上野桜木2-20-3)
[料金]500 円※建物の保全活用金として
[参加作家]アートとサイエンスのあいだ実行委員会、佐藤史浩+原口寛子、春木聡、古澤龍
[公募審査員]白石正美(SCAI THE BATHHOUSE)、熊倉純子(東京芸術大学音楽環境創造科教授)、椎原晶子(でんちゅうず・たいとう歴史都市研究会)
[主催]NPO たいとう歴史都市研究会、一般社団法人谷中のおかって、でんちゅうず
[特別協賛]アサヒビール株式会社
[助成]アサヒグループ芸術文化財団
[協力]井原市、平櫛弘子氏、東桜木町会、東京芸術大学大学院保存修復建造物研究室
アサヒ・アート・フェスティバル 2015 参加企画