「なくしてもいいもの。なくしやすいもの。なくしてまたみつけるもの。」渋谷友香理 個展を見てきました。

女装の私が、曳舟駅から徒歩10分ほどにあるSOURCE Factoryで行われていた、墨東まち見世2011ネットワークプロジェクトの参加企画である〈SOURCE .sight exhibition vol.8:「なくしてもいいもの。なくしやすいもの。なくしてまたみつけるもの。」渋谷友香理 個展〉を見てきました。作品は、展示を見て、展示物を持ち帰り、それを「なくす」までの一連の体験です。



展示物は3点ありました。1つ目はSOURCE Factoryの入り口を入ってすぐに展示されていた小さな「輪」。2つ目は入口の展示スペースと奥の瓦礫の部屋をつなぐ廊下にあった「縮れ毛」。3つ目は瓦礫の部屋の前に展示されていた「お土産」。渋谷さんの展示を見たのは2回目(卒展を含めると3回目)です。シンプルな素材、シンプルな作り。展示を通じて観賞者に「うまく説明できないのに確かに覚えのある感じ」を思い出させてくれます。


「輪」は木でできた低い棚に置かれていました。ぼんやりとした照明の中、かがんで確認し、手に取る事ができます。馬の尻尾の毛を結んで作られた輪と和紙の輪の2種類ありました。どちらも細く、繊細。人の身体性から遠く離れた素材を選ばれたとか。持ち帰ることができたので、私は馬の尻尾の毛の「輪」を右の親指にはめて持ち帰りました。渋谷さん曰く「ものをなくすことで、忘れられない記憶を意図的になくそうとする」作品。私は何を忘れようとして「輪」を持ち帰ろうとしたのか、今となっては何も覚えていません。家に帰る途中で私は「輪」をなくしました。記憶から何が消えたのかわかりません。些細な事を忘れたのか、重い記憶を消そうとして成功したのか。何一つ覚えていません。しかし、何かを忘れようとして、この作品に加担したことは覚えています。ぼんやりとしていますが、ただ、鋭い感覚を残す作品でした。


長くなりました。2つめ。「縮れ毛」。ええ、掃除しても掃除しても部屋のどこかにあるアレです。見つけるとうんざりがっかりし、ちょっと恥ずかしい気持ちになる、強烈に身体的なアレです。SOURCE Factoryの廊下に散らばっていた「縮れ毛」は「これです」と言われて初めて展示だと気づきました。素材は身体から遠く離れた人工的な素材、真鍮です。真鍮の糸を叩いたり捩じったり電子レンジで熱したり、さんざんに痛めつけて縮れさせた物でした。無くそうと掃除を繰り返しても気が付くとまたそこにある縮れ毛を思い出させます。


3つ目の「お土産」は、天井が崩落した瓦礫をそのままの状態で残してある和室の前に、展示されていました。瓦礫が放置されている何らかの「意味」を可視化した作品は「お土産」を模していました。持ち帰る事ができます。一個500円です。和紙を折って作られた、上品で、願掛けをしているかのような袋に入れられていました。瓦礫と同じ色、形をした「お土産」は入浴剤です。使用すると泡となり溶けて私たちの体を包みます。さて、「意味」はなんだったのかわかりません。「お土産」は溶けてなくなりました。500円の価値がある「意味」だったのかどうか。和紙にくるまれるほどの「意味」だったのかどうか。溶けて疲れを癒す「意味」があったのかどうか。


意図的に無くすことも、意図的に無くそうとしないことも、つい無くしてしまうことも、無くそうとしても無くならない事も、「物」だけを見ていたら些細なことです。極端に言ってしまえば「ゴミ」で片付けられてしまいます。ただ、そこに人が介在するだけで、途端におまじないのような神性を帯びる。渋谷さんの展示は、身体から遠い素材の中に人が介在する強い感覚を与えてくれます。素材と感覚の距離の遠さは、そこにある飛躍を際立たせます。その飛躍は鑑賞者個人の経験や感覚に同化します。つまりとてもローカルな感覚として刻まれます。感覚の詳細を伝えることは困難ですが飛躍を生み出す距離は(素材と感覚の)、写真や文章からも伝わるはずです。(そうであって欲しい…体験こそが全てだ、と逃げてしまうと書いている意味が無くなるから…。)このローカルな感覚を忘れたくない(たぶん、忘れるだろう、それくらい些細で日常的な感覚だから)と思わせる展示でした。

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※写真は墨東まち見世2011のGoogle+Pageより転載いたしました。