Christian Marclay「Scrolls」を見てきました。


女装の私がGallery Koyanagiで開催されているChristian Marclay「Scrolls」を見てきました。彼の作品は横浜トリエンナーレのBankartで上映されていた「Clock」(第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ金獅子賞 最優秀作家賞受賞)が有名です。同会場ではヨコトリ関連企画として巻上公一さんとのパフォーマンスイベントもありました。(私は見れなかったのですが…)そのパフォーマンスで使用された「Manga Scroll」が展示されていました。

「Manga Scroll」は英語に翻訳された日本漫画の擬音/オノマトペをつなぎ合わせて作られた20mの絵巻物です。漫画の起源とされる形式の作品は、Gallery Koyanagiではスペースの関係上だと思うのですが、5mほどしか見ることができませんでした。私は、展示の前に立ち、左側から順にオノマトペを追いました。「Booom!!」や「FLIP!」や「PROOF!」というアルファベットが鋭く尖り、また不定形に歪められて躍動し、そして延々と続きます。途切れることなく。上へ下へ躍動し、所々二股に分かれたオノマトペはまた一本の線になる。そしてまだ先が続くであろう巻物の端に吸い込まれていく。物足りない私は右端から左端に戻り、まるでそれが無限に続くと錯覚しているかのように何往復もしていました。私はそのオノマトペの先にある気配に気が付きました。


音は何もないところには発生しません。スプーンが落ちる。風が吹く。タイヤがアスファルトを擦る。ドアノブを手が回す。靴と靴下が離れる。娘が皿を割る。母親が娘を怒鳴る。父親が帰宅する。音は空気の振動で、音は事実を伝える報せで、そこには気配があります。音が個人に伝える気配のイメージは、その個人が生活してきた経験や記憶に基づきますが、「イメージさせる」という作用は共通です。オノマトペは物質化され可視化された音です。


「Manga Scroll」はオノマトペを連続させました。気配は連続します。コラージュされた気配は物語を作ります。私がイメージした気配は走る姿です。私はその姿を追い続けました。気配を追い続ける行為は、どこか麻薬的で、つまりそこには何かあるかもしれないという期待ばかりがそこにあるような。でも、気配はしっかりと残っているから、優しいというか、導いてくれるような、何か。あなたはどんな物語を想像しましたか。何の気配を感じましたか。たぶん、あなたの感じた物語や気配と私が感じたそれに、大きな違いは無い気がします。オノマトペを間違えると漫画の物語はまったく別物になります。間違えさえしなければ、繊細な台詞の一つ一つが訳されていなくても、また文化の違いによるジェスチャーの誤解があったとしても、物語の外殻はあらゆる境目を超えて伝わります。期待を込めて言いますが「Manga Scroll」を鑑賞した人と、言葉が通じなくても共通の何かを通じて話す事ができるはず。人と人、国と国、民族と民族の境目を融解し、観賞者を共鳴させる作品でした。


「Manga Scroll」以外にもオノマトペのコラージュ作品は展示されていました。5点ほどの掛け軸です。色鮮やかで、柄も煌びやかな布地をコラージュした掛け軸は、中心にオノマトペをプリント。布地は作家自身が世界中から集めてきたとか。掛け軸に凝縮された物語や気配は、解放すればそれが無限に続くのではないかと思えるほどの質量を感じます。その質量の渦の中心に物質化された音があります。


「Clock」を観ていた時も感じたのですが、Christian Marclayの作品は、音と人間の距離感が繊細で優しい。シンプルでわかりやすい。伝わりやすい。「Clock」の制作過程で数千もの映画を作家とスタッフは観たといいますから、その編集作業の恐ろしさを想像すると、身震いします。

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Christian Marclay HP
Gallery Koyanagi HP
※画像は以下のサイトから転載いたしました。
http://whitney.org/
http://london-art.net/a-sense-of-time