2012/01/07

蓮沼執太フィル公開リハーサル/個展atMOTブルームバーグ・パヴィリオンを見てきました。

女装の私が、東京都現代美術館・ブルームバーグパヴィリオンで開催されていた蓮沼執太個展『have a go at flying from music part 3』と、地下2階にある講堂で開催された、蓮沼執太フィル公開リハーサル/アーティストトークに行ってきました。

蓮沼執太という人の名前はよく聞いていました。イケムラレイコさんの展示で聞くこともありました。快快Y時のはなし』で名前を見たことがあります。山城大督さんがtwitterでつぶやいていた『Hello Everything』のMusicVideoも見ました。でも、蓮沼執太が何なのか全くわかりませんでした。ただわかるのは音楽と結びついているということ。

Hello Everything (VIDEO)

蓮沼執太フィルの公開リハーサルが東京都現代美術館の地下講堂であると知り、私は向かいました。すでにリハーサルは始まっていて、その時練習していた曲は『Earphone & Headphone in my Head』。広い講堂に人が円を描いて集まっています。最も外側は観客で、座ったり立ったり、思い思いの姿勢で真ん中を向いていました。音楽がかかっている時に上半身を揺らす人もいます。微動だにしない人もいます。その次に蓮沼執太フィルのメンバーが座っています。円の中心を向いて。彼らの視線の先にはスピーカがあります。これが円の中心でした。楽器の音はシールドを通じて(一応PAを通って)円の中心に集まり、放出されます。音は波を描いてフィルのメンバーとその外側にいる観客に伝わります。

蓮沼執太フィル・ニューイヤーコンサート2011 at VACANT

円形だから周りを見渡すと(たぶん)そこにあるモノが全て見えます。その場にいる人はみな自分の好きなように時間を過ごしていたような気がします。「リハーサルとはいえ演奏してるんだから◯◯しなければならない」という決まりはその場には感じられませんでした。座ってもいいし、立ってもいい。喋ってもいいし、黙って聞いてもいい。なぜそんな「感じ」が存在していたのか。フィルが自分たちの好きなように演奏していたからなんじゃないか。

それはリハーサルで、練習で、英語で言えばpracticeという単語になり、このpracticeは実践という意味があります。実践はつまり「やってみた」って事でそれは一回限り、同じものはない。じゃあ、本番も一回限りだし、練習も一回限りなわけだから、自分(演奏してるメンバー)の向き合い方とか気持ちとか体の状態に本番用も練習用もなくてその一回限りの実践に最もしっくりくる状態で取り組んでいる自分ってのがあるだけ。それをわかりやすい言葉で言うと「好きなように演奏している」ってことです。

で、そういう「好きなように演奏している」音が円の中心から広がって私たちに伝わります。「好きなように演奏している」姿が見えます。聴覚と視覚で「好きなように演奏している」が伝わるから、私たち(観客)も「好きなように」その場を過ごすことができます。

講堂がひとつの空間、まあ、世界だとしてそこにいる人は世界を共有しているわけです。同じものを。物理的に。円の中心を全員が向いているから、死角が無い。(もちろん、円の中心近くにいると自分の後ろが見えないから全てが見えているとは厳密には言えないけど、対角線上に相対してほぼ同等の風景があると考えたら、死角が無いと同じです。暴力的な言い方かな。)つまり、世界を共有しつつ同じ物を見ている。同時に「好きなように」過ごしている。あなたとわたしは他人だから「好きなよう」な過ごし方は違う。違うけど同じ。同じだけど違う。

蓮沼執太の作り出す空間は、気持ちのよい空間でした。違うけど同じ。漠然と境目を感じながらも、同じく漠然と境目が無いと感じられる。彼が多くの人に愛されている、でもそれはゆっくりと、太陽が地面を温めてその温度で草が育って花が咲いて実がなってそれを口にして幸せな気分になるような、そういう速度で愛されているのがよくわかります。


同美術館ブルームバーグパヴィリオンで開催されていた蓮沼執太個展『have a go at flying from music part 3』も、とても気持ちのよい展示でした。三角の部屋に入ると、3つのスピーカーとプロジェクターから音と映像が流れます。音は映像であり映像は音であり、その境目が消失した空間を感じる、という展示。

集音マイクに視点があったとしたら視覚と聴覚を同時に記録できるのではないか、を実験した映像でした。つまりマイクにカメラを付けて撮影した映像です。さらにその音を編集して曲にする際、音の編集ソフトを使用せずに映像編集ソフトを使用して曲を構成しています。あくまで音は映像であり映像は音であり、その境目は無く、同じものでした。

パヴィリオンは三ツ目通りに面した屋外に設置されています。車の騒音が激しい場所です。そして陽射しが強い。パヴィリオンは大きなガラス窓が側面にあり光を集めます。蓮沼執太の作品(の映像)は、昼間は見ることができません。太陽光がプロジェクターの光よりも強い為です。蓮沼執太の作品(の音)は騒音が激しくなれば聞こえません。光も音も「ノイズ」の影響を受けます。ここでも、音と映像の境目はありません。

ふとした時に思い出す風景は、頭の中で、映像と音が同時に再生されます。しかしそれは頭の中という一つの器官で感じる光景。実際は視覚と聴覚という2つの器官を通じて感じたものなのに。頭の中では2つの情報は融合し、で、記憶になる。この融合した光景を、蓮沼執太は見せてくれたような気がします。

もちろん、この境目の無い「感じ」を「気持ちがいい」ものにするには、たくさんの時間、収集と編集を繰り返したことでしょう。選択のセンスも必要だと思う。月並みな言葉だけど、それを実現した蓮沼執太はすごい。改めて「気持ちがいい」という感覚は大切で、それを伝えるのは難しいんだろうなと思いました。太陽だなあ。