【更新1】東京藝術大学 卒業・修了制作作品展に行ってきました。

女装の私が、東京藝術大学卒業・修了制作作品展に行ってきました。東京藝術大学の校舎を活用した大量の展示の中で、いくつか気になる作品・作家さんがいらっしゃったので、こちらで書かせていただきます。量が多かったので、思い出しながら書いています。全て書き上がってからアップすると展示終了から時間があいてしまいます。そこで、ネットならでは。途中でアップし、随時追記していくスタイルで進めます。



小林つばさ はじめるための音
http://tsu83p.jimdo.com/
質感のあるラバーインク(だと思います)が壁に塗られている作品。その形は無造作にも見えますが、何か意図をぶつけているようにも見えます。力強く塗っているよりは慎重に素早い動作で。乾いたインクは支持体(教室の壁の表面)から剥がれようとしています。その力は強く、作品の淵は壁から離れていました。壁を破いて。

「静と動」を同時に描いた「はじめるための音」から聞こえる音は、あるステージから別のステージへ移行する際に必ず感じる境目の距離。動きある作品によって止まっている事が際立つ。単細胞生物の繁殖なのか、水が壁を侵食する様子なのか。曖昧な境目のように見えて、その実はその具体的で強烈な隔たりを意識させます。


中村土光 誰かのドキュメンタリー2012
http://nakamuradokou.com/darekano/
老若男女さまざまな人のインタビュー映像が続く作品です。彼ら彼女らは「誰か」について描写します。「あの人はいい人だった」「愛人だったんだよ」「天使みたいな笑顔をしててね」「暴力はふらなかったけど」確信を持って言う人もいれば、曖昧な記憶を引き出しながら、自らの確認も踏まえて一つ一つ言葉を選ぶ人もいます。気がつくとその「誰か」は男でもあり女でもあり身近な人でもあり遠くに人でもあり、つまり「誰でもない」かもしれない事に気づきます。そんなはずはない。親なのか。親友なのか。何か共通した、つまりインタビューにはどこか交点があるはずだ。しかし、頭の中に誰かを思い描くたびにそれが否定されます。

「誰か」がそこにいるのは確かなのです。そして話す人と「誰か」にある一定の距離は具体的です。インタビューで語られる「誰か」のストーリーには固有名詞が含まれているのでイメージが具体的になります。手がかりが散りばめられているインタビューは、全て別人のストーリーで、具体的な一人についてのインタビューではありません。

そしてふと気づいたのは、思い出しながら誰かについて話す人の美しさです。思い出されながら語られる「誰か」と話している人の関係性の質感です。具体的な証拠を重ねる事で「誰か」を抽象化し、話す人と「誰か」の関係を具体化する。それは親子や友達といったラベリングされるものではなく、ただただ「関係している」ということ。


河野温子 装飾花鳥図
欧文の装飾文字を組み合わせて植物や動物を描いた作品群。文字を組み合わせて何かを形作る作品はどこかで見たことがあるが、河野さんの作品はそれとはまた違う。何が違うのか。動きがあるのです。活版印刷であるにも関わらず書道のそれに似た動き。装飾文字を組み合わせ、静かに作業をしながらもしかしそこには今にも飛びかかろうとする激しい虎の動きを込めている。

人がその意志を伝える為に道具として使用した文字は(主に宗教的な用途で)優美さや荘厳さを付与されました。現在は、文字そのものの美しさではなく、文字はどちらかと言えば可読性を重視され、その文字の組み合わせによって伝えられる内容に焦点が当てられます。説明的な「草花が生い茂り、その陰から鋭く光る目と牙が勢い良くとびかかる」という描写によって私達は状況を思い描きます。

河野さんの作品によって、文字は、組み合わせによる説明的な描写だけでなくその形状の組み合わせによる(文字通り)描写の力を得ました。もしかすると「取り戻した」に近いかもしれません。デザインとしての文字の力を、その活躍の場である社会から遠く離れた野生の力によって呼び起こした。私は展示されていた冊子が欲しくなりました。売ってないのかなあ。



【追ってアップ予定】
片桐佐知子 舞遺灰 刺血
岩井はるか still life
山田沙奈恵 土地を慕う
中島健 消えてなくなるいい景色
小林仁美 正義
竹内英梨奈 parmanent water
市川優衣 妊婦しよう。