北川貴好さん、「地上階には、つながらない邸宅」を鑑賞してきました。

北川貴好さんの「地上階には、つながらない邸宅」(としまアートステーション)を鑑賞している間、実はずっとイライラしていました。告白すると。回遊したエリア、特に中心となる駅周辺があまり得意ではないのにもかかわらず、人混みの中で立ち止まったり気を使って端によろうとしたらぶつかりかけて睨まれたり。どうして私はこんな思いをして鑑賞しているんだろうかと悲しくもなりました。


まあ、それも異界への扉を開く儀式だと思えばよいのでしょう。ぶつくさ言いながらも、インストラクションに用いられたキャラクター(カッパやアシカやウサギやモグラ)との愛嬌あるやり取り(っていっても擬似的な会話であって、実際は会話させられているっていう強制も実はイライラしたんだけど)を進めました。気が付くと、普段意識したことのない単位で街(街という言葉を使いましたが、作品中は都市空間、邸宅そのものと言った方がいいでしょうか。)を見ることができました。ありきたりな言い方ですが、普段想像している世界とは違う場所にいるような感覚です。次元の狭間にある都市空間、邸宅。境界そのものへの潜入。ファニー・ヴァレンタインのD4C(いともたやすく行われるえげつない行為)の攻撃を受けているかのような感覚。中学生の時に、周りにいる人全てが宇宙人で私一人が地球人なんじゃないかという妄想に近いもの。


地上に出ることのない空間を邸宅として再設計された空間を体験する作品。実際、この都市空間の中で生活している人がいるのだと想像すると、いかに「地域アートプロジェクト」で想定している生活の現実が限定的だったか思い知らされます。そういえば墨田区にもタワーマンションが何本も立っていきます。新しくすれ違う生活者が、まるで異星人ほどかけ離れた都市空間で生活しているかもしれないことは、想像しておいてもよいのかもしれない。

安易に「他者」って言葉を使いがちだけれども、その「他者」は想像できないくらいに複雑に増殖し増幅して隣人となりそこにいるんだなと思うと、なんて面白いんでしょう。わくわくします。はらはらします。


さて、作品中に流れる映像で、地上階につながらない邸宅としての都市空間と実際にそこにある(地上にある?)街との比較というか関係について触れている部分がありました。街を見る解像度が変わればそれはそれぞれの生活から細胞の一つ、ぼやけた輪郭の「生活らしきもの」まで抽象化/変化します。

ただ同じことは、地上階につながらない邸宅としての都市空間に生きる個別の生活者についても同じことが言えると思います。邸宅内の無数の部屋で暮らす人々の生活もまた、容易に抽象化できます。単純な良い悪いの話ではない。空間と空間を直結させた地上階につながらない邸宅としての都市空間が既存の街を破壊するとか無視するとかそういう議論ではない。ただただ異次元かのような都市空間がその場に設計されていること、それを所与の空間として生活している人がいる(かもしれない)こと、生活の多様性はもはや多次元にまで広がっている(と言っても過言ではない)ということ。

現在の複雑をより理解しやすくしてくれる作品でした。