子供鉅人「真夜中の虹」を見てきました。

南森町のマンションに住んでいた頃は気が病んでいて会社から帰ったら寝て夜中の2時位に起きて夜の高速道路のそれこそオレンジ色の光の下を歩いたりベランダから外を眺めて聞こえてくる怒号とか泣き声に思いを馳せていた。

徘徊しているのは老人だけじゃなくて若い人もいたし立ち小便をしている人もいたし、でも笑っているし、でも他人でも別世界の人でもなんでもなくて自分だってすぐそこに行ってしまう際にいた。生活ってそういうもので、それはギリギリだったとかそういう告白ではなくて、大阪はそういう世界が隣にあった。それが当たり前だった。

弱音もはいた。泣きもした。助けてくれと懇願したこともあるし、手をひっぱられバイクに乗せられ川の土手に放り出されて笑われたこともある。喧嘩は他人事ではなかったしセクハラもイジメも万引きもヤクザもヤンキーも糞尿も垢も浮浪者も野良犬も全て毎日そこにあって、その隣にすごい綺麗な人が立っていたり笑顔が綺麗で青っ鼻たらす子どもが走っていたりもした。

鼻歌で自転車をこいで落ちているものを拾っては笑顔で去る不審者なんてたくさん(言い過ぎかもしれないけど)いたし、扉をあけたまま寝ていた老人の寝相が悪くて死体みたいに廊下にはみ出ているのを跨いでその奥のお宅に新聞を投げたこともある。パン屋の仕込みはいつも早くていい香りがしたのが懐かしい。

現実味があったんではなくて現実だった。


私は東京にきて現実を見なくなったんじゃないかと怖くなった。子供鉅人「真夜中の虹」はあまりにも辛くて酷い現実の夜を笑い飛ばす作品だ。笑えなんかやしない。痴呆の妹を抱えて生きる兄を可哀想だなんて思えない。「見つからんかったらよかったのにな」と溢れる本音を受け止められますか。「お茶でもどうですか」と無自覚の暴力を投げかける女を前に必死に逃げようとする兄の気持ちに感情移入してしまうのは、私の祖父が(ry

勝手に気持ち盛り上げて結婚を切り出すどうしようもない役者崩れの男がかっこいいですか。それをうまくいなしつつ喜ぶ女はどうですか。他人の不幸が誰かの幸せのきっかけになるっていうんですか。それが美談ですか。笑えますか。ええ、笑いましょう。感動しましょう。なんていい話だ。男は夢に向かうでしょう。でも女は男の元を去るでしょう。そういうものです。笑いましょう。笑わないとやってられませんさ。


真夜中にこそ現実の根っこが悲しい虹を見せつける。ああしんどい。つらい。でも現実の根っこに触れなければ何かを失ってしまいそうな気がする。夜更かしをしようか。でも私の年齢がそんな無理な生活を許さない。朝にはシャワーを浴びて会社に向かわなくては生活できない。

こんな話を書いてしまう益山さんが怖い。次の作品も見るのが怖いけど、見るだろうと思う。