MEDIA PRACTICE16-17を見てきました。

東京藝術大学 大学院映像研究科 メディア映像専攻の年次発表会…と長い正式(?)名称。MEDIA PRACTICE16-17という発表会タイトルでした。メディアの実践。実際、気になった作品のほとんどが作品というよりも、作品に至るまでの実践の記録というか実践そのもので、ここからどのように作品となって発表されていくのかとても興味の湧くものばかりでした。会場は馬車道駅から地上にでてすぐの馬車道校舎とBankART Studio NYK。年末に柳幸典さんの展示を見に行って一ヶ月もたってないのにまた横浜です。ちょっと遠いなあ。



まず印象に残っているのは、BankART Studio NYKの二階入ってすぐ右奥にあった藤倉麻子さん。いくつものプロジェクターとモニターに、ぬるぬるとしたテクスチャーのCGが流れているもの。タイトルは《群生地放送》で、理由はよくわからないけど好みにあたる感じがしました。思わず「ベルリンっぽいな!」と心の中で叫んでしまいました。2016年の夏にベルリンビエンナーレでみたメディア芸術のアプローチに似ている気がしたのかな。映像の、物的な質感みたいなところに触れている感じがして、他の作品をいくつか見たくなりました。

次に印象に残っているのは、佐藤朋子さん。「狐につままれた」ような体験についての実践で、2つのメールのやりとりと、ボイストレーニングを受けた映像の展示でした。ボイストレーニングは3種類(ポップ、ロック、オペラ)それぞれの先生にボイストレーニングを受けていて、それは信太山にある狐の伝承に紐付いた短歌、それにメロディーをつけたものを歌うトレーニング。キーワードは「没入」のようで、戦争体験のような上の世代の方の話の実感の薄さ(情報としては得られるけどそれでいいのか?という)から、ある一定世代より上に残っている「狐につままれた」という実体験への憧れ。つまり私たちは情報をありとあらゆる場所から得ることができるけれども、体験というレベルでは何かこう解決できないモヤモヤが残る…最近だとポスト真実に対する態度とか…でも狐につままれた人たちは「狐につままれた」という事実から不可思議な体験や他者に対して対処できている。こうした「狐につままれる」体験を得るためのプラクティスが佐藤さんの展示にあって、ものすごく危うい気がするけれど、これから様々な手法で「没入」を実践していくそうで、不謹慎ながら、楽しみです。

BankARTでは寿司のパフォーマンス映像を展示されていた平本瑞希さんは馬車道校舎のシアターでは《病室からの景色/あたまの中で眠る》という映像を展示されていました。病室の作品は、物語の構成方法を色々と実験しているものでした。情報そのものを伝える虚実様々な形式をコラージュのように切り貼り、メタファーとかテクノロジーとか様々なに駆使しながら。あのOngoingなプロセスがそのまま映像として閉じ込められている感じが箱庭的で好みでした。境界線をはりめぐらせて誤魔化そうとしているけど、実際ははっきり外と内を示してる様子。

最後に朝倉千恵子さんの作品《日々淡々とその日にそなえる》について。これを見た時「その日とはいつのことだろう」と強く疑問を持ちました。言葉を読みあげその口をアップに撮影、その後読み上げた音声にあわせ、その単語単語を体で表現し続ける映像。音節ひとつひとつを分けての記録、そして口の形を記録することで発音の記録。意味の記録は文字と体の動き、そして体の動きが持つ文化的背景など。様々な方法で「その日にそなえ」ていた作品でしたが、見れば見るほど「その日とはいつのことだろう」。ご本人からではないですが聞いたところによると、それは、母語を使うことを禁止されるかもしれないその時にそなえて残している作品でした。朝倉さんの生まれて初めての海外体験に基づくとても切実な実践だと感じます。

いやあ、想像以上に見応えのある発表会でした。卒展や、卒業して様々な場所で展開される活躍が本当に楽しみです。(ってめっちゃえらそうやん私)