2011/05/19

VIVIAN BOYSのライブ@紅布を見てきました。



女装の私がVIVIAN BOYSのライブを見てきました。








知的で上品なガレージ・パンクという印象。ドラムのnao☆naoさん(女性)を挟んで、ギターの本多スーサイドさん(男性)、tommy vivianさん(男性)という構成。パフォーマンスは緻密に計算され構成されているがその素振りは見せない激しくもスタイリッシュなバンド。繰り返し検証された緻密さを感じました。お酒を飲んで盛り上がっていてもふと現実に引き戻される、ちょっとした失敗はどのパフォーマンスでも存在します。”なまもの”だから仕方ない。VIVIAN BOYSはそれがありません。最後まで完成されつくした激しさで、50cm低いフロアからステージ上の3人を見上げる私たち観客を、全く裏切らない。頭のいい人は優しいんだ。








ギターのノイズは強くて最前列で見上げる私の耳には細かい音まで判別できません。でも、私には聞こえました。本多さんが組み立てている映画的なストーリーと、VIVIAN BOYSの笑い声と、私たちの声にならない歓声。tommy vivianさんが顔全体で睨むのは空気の中に広がる無数の観客。彼らは時々向かい合いネックを高く上げて、文字通りキメる。脚はリズムをとる。完成された台本があるんじゃないかと錯覚する。それをnao☆naoさんのドラムとパフォーマンスが激しく壊す。混沌の中を彼女の澄んだ声が真っ直ぐに進んで私たちを捉える。








観客は、VIVIAN BOYSの一部になることができます。頭のいい人は優しいのです。どんな激しさの中でも「Yeah!」「S.! S. S.O.S.!」と声を、手をあげて呼応できる。正統派/ベーシックな曲の構成が、観客を取り込む。そうして、VIVIAN BOYSのファンは増えていくんだろうなあと、ライブの後最前列で余韻に浸っていました。








バンド名はヘンリーダーガーが描いた「ヴィヴィアンガールズ」に着想を得ていると聞きました。ヘンリーダーガーの絵を発見した人もこんな気分だったのかもしれない。「やばいのを発見してしまったなあ」















ライブの後、VIVIAN BOYSの3人と話す機会がありましたが割愛します。ただ一言。「知的」で「優しい」人たちでした。





2011/05/04

『ヘンリー・ダーガー展』ラフォーレミュージアム原宿にいってきました。



女装の私が、ラフォーレミュージアムでヘンリー・ダーガー展へ。





展示の最後に、識者のコメントがあった。そこで、菊地成孔氏が「発見されてしまった」と書いていたが、その言葉にこの展示についてのレビューは集約される。発見されて「しまった」ヘンリー・ダーガーの物語は『ヘンリー・ダーガー展』と名前を付けられた。





今、





全ての人間は、ヘンリー・ダーガーだ。何の因果か、彼は「20世紀アメリカ美術における最大の謎」と言われてしまった。あなたも「21世紀日本における最大の謎」なのだ。あなたは、わたしたちは、わたしは、自分でしかない。





…うーん。





レビューになっていませんね。すいません。ヘンリー・ダーガーの作品は、自分を写す鏡のような気がしてならないのです。ただただ可愛いだけではありませんし、アウトサイダーアートだから、ってんで見るものでもない。謎解きを楽しむだけのものでもなければ、障害者を憐れみつつ希望を押し付けるだけのものでもない。彼の、ひっぱりだされた絵や文字達は、ありとあらゆる意味を切り貼りされて、全く違うものになっているわけで。とにかく、利用されやすいのですよ。私はそう考えるのです。





この展示を見られた方が心に何か違和感、例えば黒い感情や赤い感情や青い感情が生まれたら、それはそれとて大切にして欲しいのです。周りが「可愛かったよねえ」「アウトサイダーアートってやっぱクールだよね」「障害者だったんだね」「アメリカの差別って根深いんだね」「今の日本って」とか言うでしょうが、そのようなものはクソくらえです。(あらやだ、すいません)





山田郁予展「絶対、一生、金輪際」を見てきました。



女装の私が、中目黒、ミヅマ・アクションで開催された山田郁予展「絶対、一生、金輪際」へ。





トレーシングペーパーに描かれた山田郁代の絵には少女漫画のモチーフもあり、同時代の作家と共通しているところがあるかもしれないけれど、しかし、壊れてる。迫力がある。彼女の絵からは拒絶を感じられる。わかった。わかったから、その距離感を大切にしよう。そう言ってしまいたくなる。遠くから見ても、近くに寄っても、決定的に近寄れない宣言のようなものがある。そこに在るのかどうかさえも、時々見失う。ただただ美しく、もう、それだけでいいんじゃないか、諦めに近い。





美しいアーティストで、だから不本意にも直面せざるを得ない状況は、多々あるのだろう。妬み嫉み。好奇。そこに彼女は制作することで向き合っている、のかもしれない。ビデオが展示されていた。そこには山田郁代が登場していた。彼女はDJに扮していたり、夏の日の少女のように奔放に振舞っていたり、存分にコミュニケーションをしているかのようだった。が、頭を釘が通り抜けたり、アトリエの閉じた光景が見えたり、その違和感は、人と距離を置いている。





「距離を置いてる」と、作品について他人が書くこと事自体、彼女を傷つけてしまうのかもしれないし、傷つけてしまうのかもしれないとか気にする事すら彼女を傷つけてしまうのかも・・・ああ、もう。ライターである私にとって、彼女を応援したくなる気持ちは、懺悔に近い。





私は、私が傷つけてしまう人に、興味を持つ。厄介だ。