2012/01/09

「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」を見てきました。:Bankart 1F


女装の私が「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」を見てきました。54とたくさんの作品がありました。全てを書くと長文になってしまいます。会場となったBankartは1F〜3Fにわかれていましたので、その階ごとにまとめて書かせていただきます。まずは1Fの作品から。(2F〜3Fは後日掲載します。)



Bankartの1階には8人の作家さんの展示があります。展示されている作品は7つ。2つのパフォーマンス(1つは展示を使うパフォーマンス)が行われていました。印象に強く残っている作品は3つで、水島ゆめさん、鈴木平人さん、千種成顕さん。



人間の体の一部が万華鏡のように繰り返される三角錐がフラクタル図を模して並べられた、水島ゆめさんの作品。壁を大きく使って三角錐が配置されていて「綺麗だな」と思いました、最初は。よく見ると、同じ図形が繰り返し使われています。その図形の側面には肌色の、だから肉の…体のどこかが使われているんだろうと思い、もっと近づきます。案の定それは体の一部で、手や足の写真が折り紙のように折られ、重ねられ、組み上げられて三角錐を作っていました。

Crystallize 2011年 立体、その他(光沢紙、他、160×160×20(cm))

それは増殖する細胞をイメージさせます。新陳代謝を繰り返す細胞。いや、細胞よりもっと小さな分子の構造かもしれません。科学の教科書に乗っていた分子の構造は英数字と丸と棒でした。温度も無い、呼吸もしない、笑わない。そんな分子が、温かくて生きていて笑ったり泣いたりする生き物を構成していることに、子どもながら「すごいなあ」と思っていたのを思い出します。その真逆。

無機質で幾何学的で増殖するにしても機械的に計算されて増えるような、そんなイメージが手や足からできている。美しい。確かに美しいのですが、もやもやとした、見なくてもよかったのに、知らなくてもよかったのに、という感情が残ります。同じもので再構築された何か別なもの。自分が享受している事(美しいと感じるものや、気持ちがいいと感じるもの)の多くが奇跡によって生まれていると、改めて知りました。


千種成顕さんの作品は、Bankart1階の右側奥にあります。「入口」と書かれた黒い幕の向こう。映像を使ったインスタレーションでした。入ってすぐは見えません。立っていると黒い幕しか見えません。座る、いえ、屈んでください。地面から約70cmほどの高さにまで頭を、視線を落とさないと映像は見えないのです。黒い犬がピンク色の綱を引きずる映像が5m程先のスクリーンで流れていて、私たちと映像の間に黒い物体があります。映像に登場している犬でした。

犬は海辺や山を歩きます。ピンク色の綱を引きずりながら歩きます。海辺では足元が不安なツルツルした岩の上を歩き、時々水に浸かって慌てて岩の上に戻ります。外国のような殺伐とした山を歩いている映像もありました。植物の背が低かったから、あれは結構高い山の上とみた。ただひたすら犬が歩く映像を映すスクリーン、その前に映像に登場した犬がピンク色の綱をつけて、寝ている。

カタログ(¥1,000です。お買い得)に「人が不在の世界を受け止める」と題され「今ここに存在しない自分を作り出す場」としての作品であると説明があります。確かに人が不在の映像で、今そこに存在している犬(寝ていたけど)がそれを助けます。また「屈む」という行為が普段の自分(人間として生きている)と違う視点を与え、それが通過儀礼のような役割を果たしているなとも感じます。しかし、どうしても、撮影している主体(作家さん)を意識する、つまり「人、存在してるじゃん」と思ってしまうのです。人が不在の世界を人が感じることなんてできるのか。犬に感情移入したらそれが可能なのか。私はできなかった。

そういえば昨年、取手で見た千種さんの作品は蟻になった彼が発泡スチロールの家に住むというものでした。建築の仕事をしていた千種さんが作成した建築模型に蟻を這わせた途端、その空間に存在感が生まれたという経験に基づく作品。「今ここに自分が存在している」という実存感を人はちょっとした錯覚や勘違いで得ることができます。蟻に自己(もしくは人)を投影した千種さんのように。なるほど。私はその錯覚や勘違いを使い「人が不在の世界」に「自分が存在している」という実存感を得ることができなかったという事か。ふーむ。

100/12010 ミクストメディア、インスタレーション、パフォーマンス


17:00ごろからBankart一階のカフェ横のスペース(屋外)で鈴木平人さんのパフォーマンスがありました。彼が昔おばあさまから聞いた、おばあさまの従姉妹である「木更津の女王」について、おばあさまを演じることで語るという作品です。

割烹着を着たり、白いメイクをしたり、ほっかむりをしたり、床にチョークで絵を描いたり、バケツで海から水を汲み取って絵にかけたり、水を絵にかけたり、水をかけたり、ブラシでこすったり、こすってこすって床を綺麗にしたり、これがおばあさまを演じる彼の身体の動き。そして最後は袴をたたむ噺家のごとく丁寧にきっちりと割烹着とホッカムリをたたんで終演です。

彼は常に口を動かし、木更津の女王について語ります。おばあさまから聞いた話を語ります。海にバケツをほうり投げる時も、チョークで床に絵を描く時も、彼の口は木更津の女王について語り続けます。鈴木さんがおばあさまから話を聞いていた時は、まさかこんな事(バケツとか)はしていなくて、たぶん縁側かどこかで座りながら聞いていたんだと思いますが、もしかすると…。まあ、それは無いでしょう。そこにいない人の死の話を聞くことの喩えとしての動きなのかもしれない。

そこにいない人、実際に会ったことの無い人の話を聞くと、頭の中でその輪郭は歪みます。最初はある程度綺麗にトレースされていたとしても。大きくなり、小さくなり、重なり、増殖し、最後は水に流される。繰り返し聞かされる事で、その人(この作品の場合は木更津の女王)の虚像を起点に、話をしてくれた人(おばあさま)の象が歪みます。彼の作品には「水」と「反復」がよく出てきます。そこに無いもの、本人の記憶にも実感の無いものを表現しようとすることで、演じている主体が歪む。ただ、確実なのは反復と水だけ。

どれだけ多くの思い出があやふやで思い出す度に違っているのだろう。脆弱なイメージ象。でも何か一つはもしかしたら確実に思い出す事ができるのかもしれません。いやあ、海にバケツをほうり投げて水を汲み水をバッシャーンとした時はびっくりしました。実際に、唐突に起こる何かによって記憶って消されるもんですよね。寒かったけど、見れてよかった。

水を噛む 2010年 パフォーマンス


とても長くなってしまいましたね。Bankartレビューはまだ続けます。あとは2階と3階です。後日公開。

「東京藝術大学先端芸術表現科 卒業・修了制作展2012」レビュー
Bankart 1F
Bankart 2F
Bankart 3F

※その他、1階の作品:
大きな木を無数の小窓が着いたタンスで覗き見る武藤舞子さんの作品。展示スペースの壁と壁を歪んだダクトパイプで繋いだ米重慧一郎さんの作品、ドラム缶の上に車が逆さまに(ルーフがへしゃげてる)めり込んでいる木村泰平さんの大掛かりな作品。シャンデリアがあって、レトロな電話があって、ゴージャズな2〜3人がけの椅子(座るところにはネイルチップ、裏側にはチューインガム)の西澤友美さんの作品。ヌイグルミが喋るロックな大西香澄さんのパフォーマンス。


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上記記事で使用した画像は下記サイトより転載いたしました。
http://www.geidai.ac.jp/event/sentan2012/